1周年特別企画!半平の思い出の記事5選!!
いつも当ブログをお読みいただき、ありがとうございます。
最近はとても寒いですね。
お身体にお変わりはありませんか?
先週の土曜には、普段雪の降らない私が住む街でも薄っら雪がつもりました。
いつか雪のちらつく街を好きな女性と一緒に歩いてみたいものです。
さて、今月17日におかげを以ちまして、「半平のきまぐれ日記」は1周年を迎えることができました!(はい、拍手~(笑))
そこで今日は、私の中で特に印象に残っている記事を五つ選び、当時は書けなかったウラ話なども交えつつ振り返ってみたいと思います。
それでは早速いってみましょう~!
「半平のきまぐれ日記」記念すべき第1回目!
当時は就労移行支援事業所に通い始めたばかりで、それまでずっと持っていた夢が挫折し、新しい希望を見出だしていて、一方で不安もあり・・・という時期でした。
そんな中で何か少しでも意味のあることを始めたいと思って、「読んだ人が少し元気になってくれる文章を書こう!」と思って始めたのがこのブログでした。
今にして思えば、アイデンティティが再編成されて行く渦中で、掴まっていられる筏のようなものを欲していたのかもしれません。
読んでくれた人より、書いてる自分の方が元気になっていますが(笑)
でも、自分も含めてだれかに勇気や元気を与え続けることができるのなら、私は書き続けたいと思います。
この記事で紹介している映画のDVDは、レンタルビデオ屋で偶然見つけました。
大して期待せずに見た気がしますが、何故か印象に残って書きたくて。
けど、それがなかなか言葉に出来ずに何度も書き直したのを覚えています。
そんな時、記事の題名にもなっている、マルティン・ルターの言葉を思い出しました。
「あっ、これだ!」という感じで一気に書き上がりました。
あの時の私には何か降りてきたのかもしれません(ルターかな?でも、ドイツ語知らんしな(笑))。
ルターの霊験かどうか、この記事は結構長く注目記事の一位を飾ってました。
私自身も好きな記事で、落ち込んだ時はよく読み返してます。
※この記事を紹介した部分について、「ブログに載せる内容としては不適切ではないか」というご指摘をいただきました。
あの内容自体は間違っているとは思いませんし、ここに敢えて掲載したのも、人生において大事なことに気づけた喜びを伝えたいと純粋に感じたからです。
しかしながら、不特定多数の読者を持つブログである以上、不適切と感じる人がいるのであれば掲載すべきでないと判断し、削除いたします。
もし、あの内容を読んで不快に感じた方がおられましたら、深くお詫び申し上げます。
私の好きなさだまさしさんの歌に「八つ目の青春」いうのがありまして、何度振られてもめげない男が八度目にして遂に恋を実らせるという歌ですが、私の「八つ目の青春」がこの記事で書いてある恋でした。
だったので、「遂に叶うかっ」と内心期待してましたが、現実が歌のように運ぶはずもなく、私の八つ恋は惨めに破れたのでした。
いつも通り結構落ち込みましたけど、この記事の予想どおり、今は九つ目の青春に挑んでます。
それもダメなら十度目の青春をすればよいのだ!
ストイックで一途な宗教家のくせして遊び人で。
自分と弟子には厳しいくせに息子には妙に甘くて。
自分は酒場と遊郭に入り浸っときながら、「酒場や遊郭に出入りしながら、したり顔で仏法を説いてる奴がいたら、ふん縛って役人に突き出せ!」なんて遺言してる。
そんな奴がいたら普通は総スカンのフルボッコでしょうが、何故かみんなに尊敬されて愛される一休さん。
あまりに飾り気のないその生き方を見ていたら、「人からこう見られたい」なんて思うことが急に馬鹿らしくなりました。
人から笑われようが、馬鹿にされようが、後ろ指指されようが、そんなことはどうだっていい。
そんなことを気にするのに貴重な人生の時間を費やしたくない、そう思えました。
そうなると生きるのが大分楽になった気がします。
その意味で最近の記事ですけど、かなりターニング・ポイント的な記事になるかな?
さて、思い出の記事を振り返ってきましたが、いかがでしたでしょうか?
もちろん、それぞれの記事に思い出や思い入れがあって、その中から五つ選ぶのは難儀なことでした。
一方で記事を選ぶ過程で昔の記事を読み返して、自分の内面の変化が分かったりして(段々不真面目になってる気がするなあ(笑))、おもしろい作業でした。
「半平のきまぐれ日記」はこれからも続きますが、私はどんな文章を書くのでしょう。
けれど、伝えたい思いがあって、そう感じる心があって、何かそれだけで十分な気がします。
とは言いながらも、愛する仕事と愛する伴侶に巡り逢って、それらのために何かをするには、がんばらなあかんし、闘わなあかん。
だから私は、少々格好つけて言えば、その闘いの記録を綴るのです。
それがいつか、だれかの勇気に変わることを願って。
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
【ネタバレあり】俺だってたまには胸キュンしたい!―映画「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」
いつも当ブログをお読みいただき、ありがとうございます。
珍しく短いスパンで更新します。
実はちょうど昨日、周りはカップルと女性客のみという超アウェイの中、今公開中の映画「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」を見てきましたので、その感想を書きたいと思います。
まず最初に言っておきます。
泣きました。
「いま、会いにゆきます」や「黄泉がえり」で号泣した経験のある私は、「ぼく明日」のあらすじを読んだ時点で泣く予感がしてましたが、案の定泣きました。
ラストシーンで。
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このマンガがすごい! Comics ぼくは明日、昨日のきみとデートする 2 (このマンガがすごい!comics)
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何はともあれ、あらすじ紹介ですが、京都市内の美大に通う大学生の南山高寿は、通学電車の中で見かけた女性・福寿愛美に一目惚れします。
勇気を振り絞って声をかけた高寿と、愛美は付き合うことになります。
初めてデートをする、名前で呼びあう、初めてキスをする、初めて結ばれる・・・
たいていのカップルが辿るであろう道のりを二人も順調に歩きます。
けれど、高寿には不思議なことがありました。
それは愛美がときおり、予言めいたことを口にして、それが的中すること。
そして、節目、節目になぜか泣き出すこと。
実はそんな愛美にはある秘密がありました。
[半平お手製の高寿と愛美の時間軸の図解(上段:35年スケール、下段:30日スケール)。映画を見終わって、家に帰ってこの図を書いていて、さらに泣き出すというね(笑)]
この映画、題名の時点でほぼ半分ネタバレしてますから、ここでネタバレしますが、実は愛美は異世界の住人で、5年に1度、30日間だけ、高寿の住む(つまりは我々の住む世界)と行き来できるのでした。
しかも、愛美の世界は、こちらの世界と時間軸が真逆なのでした。
つまりは、高寿にとっての明日は、愛美にとっての昨日というわけで。
高寿は、日に日に愛を深めていくと思ってますが、愛美にとっては、日に日に高寿が知らない人になっていく。
高寿にとっての「最初」は、愛美にとっての「最後」。
初めて会ったとき、名前を呼びあったとき、告白されたとき、愛美が泣いている理由はまさにそれでした。
愛美には、それが最後であることが分かっている。
想像してみてください。
知り合って、好きになって、やがて愛し合う過程を巻き戻しで体験することをことを。
好きな人と出会うこと、名前を呼ぶこと、キスをすること、結ばれること。
その最後の機会を予め知っていることを。
愛美が辿ったのは、まさにそんな道でした。
これを書いてるだけで泣けてきますが、切なくて悲しくてやりきれないでしょう。
でも、愛美はそれでも高寿を好きになって、恋して、愛することを選んだ。
それは多分、(高寿の)未来を辿ってみて、自分がいかに愛されている(いた?)か、高寿と自分にとって、一緒に過ごした時間がいかにかけがえないものであるかを知っていたから。
映画のラストで場面は、再び二人が出会うところに戻りますが、ここで愛美が高寿に「また会えるよ」と言ったところで号泣した私の気持ちを、分かっていただけましたでしょうか?(笑)
さて、私が普段見ないラブストーリーを、何故見る気になったかと言いますと、実はまた好きな人ができました。
我ながら懲りんもんやと思いますが、好きになったのだから仕方ない。
けど、今は分けあって、どうしても思いを伝えるわけには行きません。
時期がくれば、伝えるつもりでいますが。
この恋が叶うかどうか、それは分かりません。
一つ確かなことは、高寿と愛美に限らず、大好きな人ともいずれ別れなきゃならない時がくる。
それが今日、明日でない保証もない。
今はまだ、遠くから眺めるしかできなくても、その時間を愛おしみたいのです。
back number - 「ハッピーエンド」Music Video
[映画の主題歌。「あなたを好きなまま消えていく」のフレーズが、まさに愛美そのもので、これまた泣けます]
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
好き、好き、大好き、一休さん!
いつも当ブログをお読みいただき、ありがとうございます。
先日Wi-Fiルーターを購入し、テンションが上がっております。
これで速度制限気にせず、ネットできるぜ!
動画も見れるぜ!
[一休宗純(1394~1481)
父は後小松天皇。母はその側室で、讒言により宮中を追放されたと言われる。幼い頃より寺に預けられ、修行を積む。27歳の頃に大悟。
数々の奇行で知られ、風狂(一見戒律を破りながらも、その実悟りを表している様)を体現した僧侶]
さて近況報告はさておき、私は歴史好きなので、好きな歴史上の人物が星の数ほどいます。
けれど、友達になりたい歴史上の人物はかなり少ない。
今日はその数少ない一人の話をしましょう。
一休禅師と言えば、「一休さん」の呼び名で知られ、とんち話やアニメの主人公として現代でも親しまれていますが、天皇から庶民まで幅広い尊敬を集めた名僧でした。
だから、本当は「一休禅師」とか、「一休和尚」とか呼ぶべきでしょうが、「一休さん」の方が親しみが持ててしっくり来るので、この記事では失礼ながら「一休さん」で通させてもらいます。
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私が一休さんを好きな理由は、一言で言えばその二面性にあります。
一方では、一途に修行を積み、大徳寺などの再興を手掛け、何人もの弟子を育て上げた名僧でした。
しかし、他方では酒を飲み、肉を食べ、女性と関係を持つ、当時の基準から見れば、立派な破戒僧でした。
一休さんには「紹偵」という実子の弟子がいましたが、この息子が父の遊び人気質だけを拡大して受け継いだような人で、なかなか修行に身が入らない。
これには一休さんも手を焼いて、なだめたりすかしたりして、何とか修行をさせようとしています。
また、一休さんは70を過ぎてから「森」という名の若い盲目の美女に恋をしますが、ご老人が書いたとは思えない熱烈なラブレターを書いています。
他にも印可状(悟ったことを証明する免許のようなもの)を燃やしたり、仏像を枕に昼寝したりと、そういう破天荒なエピソードに事欠きません。
ではなぜ、そんなお坊さんが大勢の人に尊敬されたのか?
それは、自分のあらゆる面を包み隠さず見せたからではないでしょうか?
一休さんは自分を飾るとか、表面を取り繕うとかに無縁の人であった気がします。
子どものように率直な生き方が、人間的な魅力を醸し出していたのでしょう。
一休和尚 OP
[今回の記事のタイトルの元になったアニメ「一休さん」のOP。こんなかわいい子どもが、大人になるとあの様です(笑)]
大なり小なり、だれもが自分のことをよく見せたがるもので、ダメな(と自分が思う)ところは隠したがるもの。
私自身も(自分で言うのも何ですが)一途で純粋なところがあって、一度こうと決めたらひたすらその道を進むところがあります。
けれど一方で、酒は飲みませんが、甘いものがどうしようもなく好きで(この前それで6本虫歯になった)、女性が好きで、気が多くて。
ついでに言うと、ドジで間抜けで、おっちょこちょいで、そのくせ格好つけで、頑固なくせに飽きっぽくて、一人が好きなくせにさみしがり屋で、おまけに水虫でetc..
とまあ、何かと欠点が多くて自分でも時々うんざりします。
けれど、最近はそんなところも隠さずにオープンにするようにしています。
すると、生きるのが随分と楽になるし、自分のことが益々好きになれました。
人生は長い。
しかし、有限ではある。
だから、自分を飾ったり、取り繕ったり、そんなことより、もっと大事なことがありますよ―そう一休さんはおしえてくれている気がします。
[私の好きな植木等さんの歌。一休さんの生き様そのものの歌のように思えます。]
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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あなたは愛したい派?、愛されたい派?―ヘルマン・ヘッセ「アウグスツス」
皆様、明けましておめでとうございます。
今年も「読んでくれた人が少しばかり元気になるブログ」を目指しますので、「半平のきまぐれ日記」をよろしくお願いいたします。
[ヘルマン・ヘッセ(1887~1962)
言わずと知れたドイツの文豪。もっとも作品は、今日紹介した「アウグスツス」が入っている『メルヒェン』しか読んだことがありませんが。
代表作『車輪の下』、『デミアン』、『ガラス玉遊戯』。1946年、ノーベル文学賞受賞。]
さて、新年早々ですが、一つ思考実験をしてみましょう。
あなたの前に魔法使いが現れて、「だれにでも愛されるようになる魔法」と、「だれでも愛せるようになる魔法」どちらかをかけてあげる、と言われたらどちらを選びますか?
そんな話が今日ご紹介する、ヘルマン・ヘッセの短編「アウグスツス」です。
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[元々は第1次世界大戦の従軍兵士向けに書かれた短編童話集。冒頭の「アウグスツス」だけで¥432以上の価値がありますが、私は「詩人」も結構好きです。]
ある若い母親の元に魔法使いの老爺が現れて、「おまえの息子の人生を願い通りにしよう」と言われます。
迷った母親は、「だれにでも愛されるように」と願いをかけます。
願い通りに彼女の息子、アウグスツスは、子どもの頃から行く先々でだれにでも愛されるようになります。
だれもが彼の歓心を買いたがり、贈り物をし、援助をし、あるいは愛情を注ぐ。
そんなアウグスツスは、当然のごとく傲慢で歪んだ性格に育ち、周りの人を騙し、陥れ、非道な仕打ちをしますが、それでも周囲の人は彼を愛する。
「愛されるに値する人間でないのに愛される」ことに絶望したアウグスツスは、命を絶とうとします。
そんな彼の元に再び魔法使いの老爺が現れます。
アウグスツスは、「だれにでも愛される」を取り消し、自分が「だれをも愛せる」ようになることを願います。
すると、周囲の人は、手のひらを返したようにアウグスツスを罵り、騙し取られた財産を奪い返し、彼は見る影もなくやつれます。
しかし、アウグスツスは幸せでした。
なぜならば、路上で遊ぶ子どもたちを見ては可愛いと思い、ベンチで休む老人を見ては労りたいと思い、額に汗して働く人を見れば、手伝いたいと思ったから。
アウグスツスは人々を助けるための旅に出ますが、その胸は以前の人生では知り得なかった、穏やかな愛情に満ちていました。
そして、年老い、生まれた家に戻ったアウグスツスは、魔法使いの老爺に看取られながら穏やかに最期の時を迎えるのでした・・・。
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[私が「アウグスツス」を知ったのがこのマンガ。私の下手なあらすじより、よほど分かりやすいですよ(笑)]
さて、人間に(あるいは、あらゆる生きとし生けるもの)にとって、「愛される」ということは、水や食料のようなものではないかと思います。
「だれにも愛されない人生」というものがあるならば、それは砂漠に身一つで放り出されたようなもので、到底生きていくことはできないでしょう。
しかし、それを人生の目的にしようとは思いません。
食べることそれ自体が、人生の目的にならないのと同じように。
人は生きるために食べるのであって、食べるために生きるのではありません。
それに、愛されるかどうかは、つまるところ他人次第であって、自分の人生のもっとも大切な部分を、他人任せにしたいとも思いません。
だから私は、もし魔法使いが目の前に現れたなら、「だれでも愛せる」を選びたい。
いや、魔法使いが現れなくても、一人でも多くの人を愛し、助けられる人生を送りたい。
何らかの見返りを期待するのではなく。
その方が、人に愛されることを求める人生よりも、よほど心豊かな人生であると、私は思うのです。
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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拝啓、母上様、父上様
いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
大晦日も迫る中、皆様におかれましては年越しの準備に追われておりますでしょうか?
さて、「半平のきまぐれ日記」も今日が年内最後の更新でございます。
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母さんは夜なべをして~♪ のフレーズで始まるのは童謡の「かあさんの歌」ですが、たいていの日本人は、 1 度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?
コメディなんかでは、立てこもる犯人を説得するシチュエーションでよく出てくる歌ですが、今日はこの歌にまつわる話をしたいと思います。
倍賞千恵子 かあさんの歌
[ 「かあさんの歌」はたくさんの歌手が歌っていますが、今日はたくさんの抒情曲をカバーしている倍賞千恵子さんの歌声でどうぞ ]
この歌は、音楽家の窪田聡 (1935 ~ ) さんによって 1955 年ごろにつくられました。
東京の下町に生まれた窪田さんは、都内屈指の名門校・開成高校に通いますが、太宰治のような退廃的な生き方に憧れて、授業をさぼり倒し、早稲田大学に合格するものの、1日も通うことなく家出してしまいます。
その後は戦後に一世を風靡した「うたごえ運動」(うたごえ運動(うたごえうんどう)とは - コトバンク)に共鳴してアコーディオン片手に街頭で歌い、放浪の日々を送ります。
かあさんの歌 - 童謡・唱歌 - 歌詞 : 歌ネット
そんな日々を送る窪田さんの元にある日、居場所を突き止めた母から小包が届きます。
1 番の歌詞はそれをモチーフにしているわけですが、窪田さんは東京の下町生まれ。
この歌の背景になっている高度成長期前の典型的な日本の農村の風景は、窪田さんが戦時中に疎開していた信州の農村が元になっています。
少年の日々を過ごした信州の農村と、自分勝手な生き方を黙認してくれた両親への思いが、重なり合って生まれたのがこの曲だったというわけです。
さて、この話を聞くと、私も自分の親を思いだします。
子どものころから私のやりたいことに反対もせずに見守ってくれた親でした。
今でもはっきり言って不肖の息子ですが、私のやることにほとんど口出しせずに、辛抱強く物心両面から支えてくれています。
たぶん心配で仕方ないはずなのに、それを億尾にも出さずにたまに帰ると、笑顔で軽口をたたき合う、私の父と母。
普段は面と向かって言えないけど、今ここで言います、「こんな私を信じてくれて、ありがとう」と。
いつか面と向かって言えるようになれたらいいけれど、今はこれだけ。
いつか、あなたたちのような、人を信じられる強い人になりたいです。
・・・とまあ、柄にもなく殊勝なことを書いてみました ( 笑 )
さて、今日はこの辺にしたいと思います。
1 年間お付き合いいただき、ありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いします。
それでは、年末年始、お身体にお気をつけて、よいお年を!
この世界の片隅で、私も生きよう―映画「この世界の片隅に」(※ネタバレあり)
いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
冬将軍が急に勤労意欲に目覚めたような寒さが続きますが、皆さんお元気でしょうか?
先日、友人に強く勧められて、映画「この世界の片隅に」(この世界の片隅に : 作品情報 - 映画.com)を見てきましたので、今日はその話をしようと思います。
広島で海苔づくりを営む家に生まれた主人公の北條(旧姓:浦野)すずは、絵を描くのが得意で、ちょっと変わってるけど、優しい女の子(ちなみに、すずみたいにおっとりしてて、優しい女性は個人的にどストライクです(笑))。
そんな彼女は、成長して呉の海軍書記官の青年の家に嫁ぎます。
かなりマイペースなすずは、嫁ぎ先で家事や義理の姉との付き合いに苦労しながらも、それなりに幸せな日々を送っていました。
そんな彼女にも、戦争の影が忍び寄り・・・という筋書きです。
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さて、日本人のつくった戦争映画(ドラマ)は、戦前・戦中の日本(人)を極端に悪く描くか、美化するかで、やたらイデオロギー臭い傾向がありますが、この映画にその嫌いはありません。
おそらく、あの時代を生きた多くの人々が送ったであろう、日常生活が淡々と描かれています。
日本の戦争映画につきものの空襲の描写も映画の後半にならないと出てきません。
人間関係に悩み、日々の生活を必死で守り、その中でささやかな幸せを噛み締めるその姿は、現代を生きる我々と何ら変わるところがありません。
コトリンゴ -「 悲しくてやりきれない 」
[映画の主題歌]
そして、それだからこそ、戦争の理不尽さや不条理さがより際立つようです。
いかなる理由があろうと、いかなる正義で飾ろうと、戦争は普通の人々にとって、理不尽でしかなく、その本質は「悪」(人が殺し合い、傷つけ合い、人々の生活と幸福を犠牲にすることを正当化する戦争を、私は敢えてこう言いたい)であると、気づかされます。
「悲しくてやりきれない ザ」・フォーク・クルセダーズ(The Folk Crusaders)
[「悲しくてやりきれない」のオリジナル歌唱、フォークル版。
作詞はあのサトウハチローですが、彼らしい悲しいながらも、どこか温かい不思議な歌です]
物語の雰囲気は、牧歌的ですらあるんですが、後半ですずは、空襲で自身の右手と、その時一緒にいた義理の姪を失います。
姪を守れなかったことで、自責の念に苛まれた彼女は、人が変わったように塞ぎこみ、生きる意欲さえ失ったようになります。
けれど、それでもすずは、自分の居場所を見つけ、生きることを選ぶ。
この世界の片隅で。
その姿は、決して彼女だけのものでなくて、あらゆる時代に生きる人間に共通するものなのではないでしょうか。
悲しくてやりきれない 怪しい彼女--多部未華子 歌唱シーン映像(歌詞付く)中文字譯
[「あやしい彼女」という映画の中で女優の多部未華子さんが歌ったバージョンです。多部ちゃんのかわいい歌声に癒されます。]
人は生まれる時代や国を選べません。
個人の力ではどう仕様もない理不尽に出会うこともあるでしょう。
それは時に戦争であり、貧困であり、災害であり、他の何かかもしれません。
生きるのが心底嫌になる時もあるかもしれません。
そこまで行かなくても嫌なことや、「やってられない」ことなんて、大小取り混ぜてたくさんあるでしょう。
けれど、人間にできるのは、それでも生きることなのだと、私は思います。
命の尽きるその瞬間まで。
万葉倶楽部CM 柳沢慎吾主演「父の声~新たな希望~」篇 ディレクターズ・カット版
[都市型温泉施設の万葉倶楽部のCMで「悲しくてやりきれない」が使われています。私がよく行く映画館では、上映前によくこのCMが流れていて、この映画を見た時も流れていました]
それに、生きてれば悪いことばかりでもありません。
すずがそうであったように、戦争のような状況下でも幸せを見つけることはできるし、絶望しても立ち直ることだってできる。
だから、私も生きよう、何があっても。
この世界の片隅で。
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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“出会い”がくれた数式(映画「奇蹟がくれた数式」)
いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
最近は司書の資格取得が佳境に差し掛かってまして、趣味とは言え、あまり更新できずに歯がゆく思っているところです。
週1どころか、2、3週、あるいは月1くらいの更新になるかもしれませんが、一人でも読んで下さる方のいる限り、書き続けるつもりですので、どうぞよろしくお願いします。
[シュリニヴァーサ・ラマヌジャン(1887~1920)]
さて、皆さんはラマヌジャンという数学者をご存じでしょうか?
一般的な知名度は低いかもしれませんが、人知を越えた才能で「インドの魔術師」と呼ばれた天才数学者です。
わずか32歳で夭逝しましたが、死後100年近く経った今でも、彼の遺した膨大な研究の解析に世界中の数学者が挑んでいるといいます。
そんなラマヌジャンの生涯を描いた伝記映画「奇蹟がくれた数式」が先日公開されまして、私も見てきましたので、今日はそれについて書きたいと思います。
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ラマヌジャンは、当時はまだイギリスの植民地だったインドで、カースト最上層のバラモンの家に生まれました。
15歳の時にある数学の本を読んで以降、数学の魅力に取りつかれ、研究に没頭します。
大学には入りましたが、数学の研究に夢中になり過ぎたのが災いし、中退。
それでも研究を続けますが、あまりにも我流であったため、その才能はあまり認められませんでした。
直感的に数々の公式を導き出すものの、それを証明するのが、彼は苦手だったのです(と言うか、証明の必要性を理解していなかった可能性が高い)。
自分の研究成果を認めた手紙を遠くイギリスにまで送り、それが当時ケンブリッジ大学を代表する数学者であった、ハーディーの目に留まり、ケンブリッジに招聘されます。
渡英したラマヌジャンは早速ハーディーと共同研究を始めますが、特に緻密な実証を重んじるハーディーと、直感型のラマヌジャンは激しく衝突してしまい・・・というのが、この映画のあらすじです。
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ラマヌジャンとハーディーは数学のスタイルだけでなく、あらゆる点が正反対でした。
ラマヌジャンが敬虔なヒンドゥー教徒なのに対し、ハーディーは独身。
ハーディーは独身だけど、ラマヌジャンはインドに妻を残してきている。
ラマヌジャンは叩き上げ、ハーディーはエリート・・・。
おまけに根は優しいんだけど、人情の機微を読むのが苦手なハーディーはラマヌジャンの孤独や苦悩が分かりません。
こんな二人がただ、数学への純粋な情熱によって結ばれて、やがてただの共同研究者を越えた友情を育んで行くのだからおもしろいものです。
結局のところ、ラマヌジャンがアイデアを出し、ハーディーがそれを証明する形で共同研究は進み、僅か数年の間で数々の偉大な業績が生み出されます。
ラマヌジャンと、ハーディーのどちらが欠けても生み出されなかったであろう業績が。
どちらも天才的な数学者ではありましたが、おそらく一人だけでは歴史に名を残すことはできなかったでしょう。
ハーディーとラマヌジャンに限らず、アインシュタインもニュートンも、他にも多くの天才たちの仕事が、無数の出会いの果てになされたものなのでしょう。
どんな天才たちも決して一人で歩くことはできない。
ましてや、私のような努力してようやく凡才の人間は、なおさらそうでしょう。
だからこそ、一つ一つの出会い、たとえ祝福せざる出会いでも人生の肥やしくらいにはなるのですから、それを大切にしたいものです。
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
また、この記事をお気に召していただけましたら、シェアしていただけますと、大変光栄です。