半平のきまぐれ日記

ADHD(注意欠陥多動障害)の会社員が本を読んで、映画を見て、あるいはその他諸々について思ったことを気まぐれに綴ります。(※本ブログはAmazonアソシエイトを利用しています。また、記事中の画像は、断りのない限りWikipediaからの引用、もしくはフリー素材を使用しています)

私のそばにいてください、たとえ私があなたを突きとばしても

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

まだまだ、心の燃料タンクが空の半平です。

気分がどうにも沈みがちで、なかなかしんどいんですが、苦悩こそ創作の源。

ヴェートヴェンの「第九」然り、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」然り、傑作とは悲しみと苦しみの中に得てして生まれるものです。

私も先人たちの例に倣い、ブログを書き続けることにします。


さて、今日は私の好きな谷川俊太郎さんの「願い」という詩の話をしたいと思います。

まずはその詩をお読みください。

願い

いっしょにふるえて下さい 
私が熱でふるえているとき 
私の熱を数字に変えたりしないで 
私の汗びっしょりの肌に 
あなたのひんやりと乾いた肌を下さい

分かろうとしないで下さい 
私がうわごとを言いつづけるとき 
意味なんか探さないで 
夜っぴて私のそばにいて下さい 
たとえ私があなたを突きとばしても 

私の痛みは私だけのもの 
あなたにわけてあげることはできません 
全世界が一本の鋭い錐でしかないとき 
せめて目をつむり耐えて下さい 
あなたも私の敵であるということに 

あなたをまるごと私に下さい 
頭だけではいやです心だけでも 
あなたの背中に私を負って 
手さぐりでさまよってほしいのです 
よみのくにの泉のほとりを

谷川俊太郎、『自選 谷川俊太郎詩集』岩波文庫、329〜331頁

自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)

自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)

谷川俊太郎さんが自分の作品の中で、気に入っているものを選んだ本。
「生きる」や「朝のリレー」のような国語の教科書にも載るような作品がなく、マイナーなものが多いのがおもしろい。
この詩集の中では、他にも「これが私のやさしさです」、「ほほえみの意味」、「美しい夏の朝に」なんかがお気に入り。



この詩を読んで、どうお感じになりましたか?

わがまま?弱虫?意味不明?


この詩を読むと、子どものときに母親に看病されたときのことを思い出します。

熱冷まシートより、母親におでこに手をあててもらう方が気持ちかったのを覚えています。

そのせいかどうか、数ある谷川さんの詩の中で、私はこれがいちばん好きです。

特に今のようにどうしてもがんばれなくて、気持ちが沈んでどうしようもないときは、いっそう心にしみてきます。


「大丈夫!」と思った次の瞬間に「もう無理!」ってなる。

がんばりたいのに、がんばれず。

前に進みたいのに、力が湧いてこない。

不意に泣きたくなり、仕事も何もかも投げ出したくなる。

まさに高熱にうなされて口走るうわごとのように支離滅裂です。


人が本当に落ち込んでいるとき、慰めや励ましはあまり意味がないと思うのです。

たとえ他人にとっては取るに足らないことに見えたとしても、その人にとっては深刻なことである可能性もあるし、それを否定することはだれにもできないはずなのです。


人が悲しみや苦しみの中にあって、塞ぎ込んだり、取り乱したり、あるいは無理に笑おうとしているとき、必要なのは言葉をかけてあげることでも、話を聞いてあげることでさえもないのかもしれません。

ただ、そばにいて寄り添ってあげること。

たとえその人に突きとばされたとしても。


もちろん、それは簡単なことではありません。

しかし、そんな人がいてくれることが私にとっての支えであり。

自分もだれかにとってのそんな人になれるかもしれないということが、私にとっての希望なのです。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

何もないことの幸せ

メリークリスマス!

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

今日はクリスマスですね(クリスマスは本来24日夜から25日夕方にかけてのこと。昔のヨーロッパでは、日没を一日の始まりとしていたので、24日の夜はクリスマスの夜=クリスマス・イブニング=クリスマス・イブなのです。この前NHKの「チコちゃんに叱られる」でやってました)。

昨日仕事でクリスマス絵本の読み聞かせをしたのですが、そのとき読んだ絵本がとてもよかったので、今日はその話をしたいと思います。


皆さんは「きよしこの夜」という賛美歌をご存知のことと思います。



歌唱・玉置浩二


オリジナル・ドイツ語

ちなみに絵本の最後に「きよしこの夜」を歌うところがあって、子どもたちと一緒に歌おうと思いましたが、子どもたちはだれも知らず・・・
一緒に読み聞かせをしていた同僚たちと、お母さんたちが歌ってくれました。ありがとうございます!


この曲は今からちょうど200年前の1818年、オーストリアの小さな村の神父ヨゼフ・モーデルが作詞し、その友人のフランツ・グルーバーによって作曲されたものと言われています。

その誕生までの逸話をもとに描かれたのが、今日紹介する絵本『クリスマスのうたものがたり』です。


クリスマスのうたものがたり

クリスマスのうたものがたり

絵本ではオルガンの故障を受けて神父が作詞したことになっていますが、詩自体はオルガンが故障する数年前にできていたという説もあります。


1818年のクリスマス直前、ヨゼフ神父の教会ではパイプオルガンが故障してしまいました。

オルガンがなくてはミサで合唱する賛美歌が演奏できず、神父は困り果てます。

そこに村の少年がやってきて、彼の家に弟が生まれたのでぜひ祝福して欲しいと頼みます。


貧しい少年の家では、赤ん坊がただ質素なベッドに寝かされているだけでしたが、赤ん坊の周りには家族の笑顔がありました。

その光景を見た神父は気づきます。

イエス・キリストは粗末な馬小屋で生まれたが、こんな風な温かな笑顔に迎えられたに違いない、と。

何もないが愛と喜びがある、それがいかに素晴らしいかと。


教会に帰った神父は、イエスの誕生の情景を元に詩を書き上げ、友人のグルーバーにオルガンではなく、ギターで演奏できるような曲をつけるように依頼します。

これが「きよしこの夜」でした。


この絵本を読んだとき、ハッとすると同時に、何とも言えず、胸が温かくなりました。

人はつい、生きているとあれこれ求めてしまうもの。

そして、それが得られないと失望したり、自棄を起こしたり、はたまた怒り出したり・・・。


けれど、ただ生きてあること、愛されていること、これがどんなに素晴らしいことか。

あなたや私がこの世に生まれて、今日まで生きたきたこと、それ自体がだれかに愛されている証なのだと思います。


私は愚かな人間ですから、ついつい欲をかいてしまいます。

それは仕方ないのかもしれません。

だからせめて、たまには何もないことの幸せを思い出すことにしましょう。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

それでは皆さん、よいクリスマスを!

おくりものはナンニモナイ

おくりものはナンニモナイ

クリスマスの絵本で好きなのがこれ。これも何もないことの幸せが描かれています。
絵柄もかわいくて、胸キュン必至なので、大切な人と読んでみてください。

悲しくてさびしい夜に聴きたい半平マイベスト

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今日は突然思いついた企画をやりたいと思います。

私は一人暮らし歴が結構長いので、夜独りでいるとき、無性にさびしさやもの悲しさを感じることがあります。

また、辛いことがあったとき、人恋しくなる夜も。

今日はそんな夜に聴きたくなる歌を個人的嗜好に基づく独断と偏見で、六曲選んでみました。


今回はあえて文章は最小限にしています。

一応、一言ずつコメントしてますが、そこも読み飛ばしてくださって構いません。

それよりも歌を、言葉を味わってください。

悲しくてさびしい夜を過ごしたことのある方、今まさにそんな夜を過ごしている方、あるいはそんな経験のない方も、歌詞とともにぜひこの曲たちを味わってみてください。


コブクロ「風をみつめて」



風をみつめて

風をみつめて

一歩も進めないそんな今日は 未来の君がもう1mmだけがんばれる日のための雨宿り

なぜかうまく行かないときは、人生の雨宿り。


ももいろクローバーZ「泣いてもいいんだよ」



泣きたいのなら泣いてもいいんだよ。


武田鉄矢天までとどけ



天までとどけ

天までとどけ

弱いあなたは人間らしい

自分の弱さを赦せるからこそ、他人の弱さも赦せるし、弱さを知るからこそ、強くもなれる。


河島英五「生きてりゃいいさ」



生きてるだけで、それで十分。


⑤フォーククルセダーズ「悲しくてやりきれない」



悲しくてやりきれないこともある、言葉にならないモヤモヤもある。

それが人生だ。


⑥「ゴンドラの唄」


(映画「生きる」で主演の志村喬が歌ったバージョン)

ゴンドラの唄

ゴンドラの唄

なぜか一人で夜道を歩いているとき歌いたくなる曲。

命は儚く短い。

だから、やりたいことはすぐにやろう。


いかがでしたか?

皆さんのお気に入りの曲はありましたでしょうか?

あるいは、皆さんが今回のようなシチュエーションで聴きたい曲は何ですか?

ブログのコメント欄などでおしえていただけましたら幸いです。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ただ、だれかを好きになるって、やっぱりいいと思います

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

最近、例の"挑戦"が一区切りついて、これからの方針も立てて、緊張の糸が切れたのか、軽く燃え尽き症候群のような感じになっている半平です。

仕事が終わって、家に帰るとため息ばかりついたり、何もやる気がせずボーっとしたり・・・

心の燃料タンクがからになってしまったような状態で、新しい目標に向かって、色々しなきゃいけないけともあるんですが、前みたいにむくむくと意欲が湧いてこないというか・・・

一方で突き動かす何かも自分の中にあるので、騙し騙し、少しずつ勉強したりしてる状態です。


さて、今日は久々に恋バナをしたいと思います。

私自身が今恋をしているというのもありますが、今TVでやっている恋愛ドラマにハマっているもので。

それに半年くらい前に見た恋愛映画の話もしたいので。

どちらも、「だれかを好きになること」の良さを思い出させてくれる、いい作品だと思っています。


ドラマの方は、中学教師の末永聖(有村架純)と10歳年下の教え子・黒岩晶(岡田健史)の恋模様を描いく「中学聖日記」。




今度の火曜に最終回のドラマのダイジェスト映像を主題歌のUru「プロローグ」にのせて。
二人の切なくて苦しい恋が、実によく歌われている名曲です。

プロローグ(初回生産限定盤)(DVD付)(特典なし)

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そして映画の方は、17歳の女子高生・橘アキラ(小松菜奈)と、そのバイト先42歳のファミレス店長(大泉洋)の恋を描いた「恋は雨上がりのように」です。



主演の小松菜奈と店長役の大泉洋が原作のイメージにピッタリ。と言うか、小松菜奈かわいい。

恋は雨上がりのように

恋は雨上がりのように



この二つの作品に共通するのは"年の差恋愛"と"禁断の恋"。

特に「中学聖日記」の方は、中学教師と中三の男子生徒という、はっきり社会的禁忌を犯す恋を描くドラマだったために、放送当初はかなり批判も多かったそうです。


私がなぜ、この二つの作品に共感できるのかと言えば、私もつい最近まで、10歳は年上であろう女性に恋をしていたから、そしてそれは禁断の恋と言えなくもなかった(不倫とかじゃないですよ、念のため)からだと思います。

結局色々考えて、相手の女性に思いを告げることなく、その恋は終わりましたが。


中学聖日記」の晶にしても、「恋は雨上がりのように」のアキラにしても、まだ若いせいもあってか、恋する相手以外(あるいは相手のことすらも)見えていません。

まさに恋の情熱に突き動かされるままに行動していて、その姿はものすごく自己中心的ですらある(一応、お互いに惹かれあって行く展開にはなりますが)。

しかし、とても一途で純粋であるとも言えます。


この漫画が連載されていた当時、ちょうど前述の年上の女性に恋をしている真っ最中だったので、アキラに感情移入し過ぎて、全巻そろえてしまいました(笑)
一見冴えない店長がアキラに惹かれつつも、手を出さずに"大人の男"としてアキラを導いていくのがかっこいい。こういう男に私もなりたい。


もちろん、恋には情熱だけでなくて、相手を思いやる気持ちも必要なわけですが、二人の姿を見ていると、"思いやり"を言い訳に、自分に嘘をついているだけなんじゃないかと気づかされます。

例えば私にしたところで、叶わないにしても敢えて告白して、きちんと振られるという選択肢もあったわけで。

相手の立場なんかを慮って思いを胸に秘めることにしたつもりで、実は自分が傷つきたくなかっただけだったり、叶わない恋を最後までやり遂げる強さがなかっただけだったり・・・。

少なくともそういう部分はあったと思うのです。


中年男性と女子高生の恋、教師と教え子の恋、どちらも社会の何らかのモラルに触れ、世間の多くの人から非難されるでしょう。

しかし、そこを取り払って考えれば、純粋に人が人を好きになって、惹かれ合うという構図だけが残る(もっと言えば、好きになった相手がたまたま、教師であり、教え子であり、中年男性であり、女子高生なだけだったとも言える)。

そしてそれは、とてもいいものだと思うのです。


その人のことを思うだけで胸が苦しくなったり、四六時中その人のことが頭を離れなくなったり、そこまでの恋をすることは人生でそう多くないのかもしれません。

あるいは一度もせずに生涯を終える人も少なくないのかも。


けれども、思いが強いからといって結ばれるわけではないし、本当に好きな人と結ばれることは、一生に一度あるかないかの幸運なのかもしれません。


けれど、たとえ多くの恋が挫折と失敗、涙に暮れて終わるとしても、人を好きになることには意味があると思うし、恋はすべきだと、少なくとも私は思います。


今の恋も正直見込みは薄いと思っていますが、今度は言い訳せず、後悔しないようにしたいと思います。


中学聖日記 コミック 1-4巻セット

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中学聖日記」の原作。こちらは未読。けど、ドラマにかなりハマったので買うかもしれません(笑)
聖は晶を突き放したり、寄り添ったり、教師と一人の女性の立場の間で揺れ動いていて、それが幼かったり不安定な印象を与えますが、そこが人間くさくて好きだったりします。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

田舎のおっさんの偉大な仕事

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

ブログ再開から三日後の更新でございます。

これからは当面、休止期間中に溜まっていた"書きたかったこと"を書いていくことになると思います。

ですので、既に公開が終わっている映画の記事なんかをかなり書くことになるとおもいますが、悪しからず(今までもそうか(笑))。


さて、今日もそんな映画の一つ、「LBJ ケネディの遺志を継いだ男」を取り上げます。

皆さんは「ジョンソン大統領」をご存知でしょうか?

ケネディニクソンという、なにかと話題の多い二人の大統領に挟まれて、少なくとも日本ではあまり知名度が高くないように思いますが、そのジョンソンを主人公にした伝記映画です。

題名の"LBJ"とは彼がケネディの"JFK"の向こうを張って、周囲にこう呼ばせていたことに由来します(もっとも、彼の支持者以外からは失笑を買っていたようですが)。



リンドン・ベインズ・ジョンソン(1908〜1973)

テキサス州の農場主の家庭に生まれる。教師や地元選出議員の秘書、テキサス州青年局長を経て、下院議員に当選。
その後、上院議員に転身。一九六〇年の予備選でケネディに敗れるも副大統領候補に指名される。
大統領としては、「貧困との戦い」を掲げ、社会保障制度の拡充などで成果を挙げた。反面、ベトナム戦争の泥沼化を止められなかった。それが原因で支持を失い、自身二期目となる六八年の大統領選に不出馬を表明し、政界を引退した。



物語はジョンソンがケネディ民主党大統領候補の指名を争った一九六〇年の予備選と、ケネディ政権下の副大統領としての日々を前半で描いたあと、ダラスでのケネディ暗殺を経て、大統領に昇格したジョンソンが公民権法案を成立させるところで終わります。


さて、このケネディとジョンソン、実に好対照な政治家でした。

片や東部上流階級の御曹司、片や南部のごく普通の中流階級の出身。

片や四〇代そこそこ、いまだに破られていない最年少大統領就任記録をつくる若き政治家、片や予備選時点で議員在任二〇年以上のベテラン政治家。

片やリベラル、片や保守。

片や洗練されたジョークで人々を笑わせ、片や下品な言い回しを連発し、人々を閉口させる。

・・・とまあ、ジョンソンは政治家でなければ、田舎のそこらへんにいそうなおじさんでした。



ジョン・F・ケネディ



おまけに、副大統領として彼が担ったのは議会対策という、国民の目にも触れにくい地味な仕事。

国民の人気はケネディが独占し、メディアからは「何の権限もない」とか、「解任寸前」などと書かれ、ジョンソンはケネディへの嫉妬と劣等感を募らせます。


そんな鬱々とした日々が続くかと思われたある日、一発の銃弾がジョンソンの運命を変えます。

ケネディが暗殺され、急遽大統領に就任した彼は、動揺する閣僚たちをまとめ上げ、政治的空白を最小限にとどめると、既に審議入りしていた公民権法案を成立させるべく議会工作に乗り出します。

特に反対が予想されていた南部選出の議員たちに対して粘り強い懐柔を行い、その甲斐あって公民権法案は予想に反して圧倒的多数の賛成で成立するのでした。


法案成立時のジョンソンの感動的な演説で映画は幕を閉じますが、ジョンソン政権の功績は公民権法案だけでなく、メディケアやフードスタンプなど、現代に至るまでのアメリカの社会保障制度を整備したことにあります。

成立させた法案の数は歴代大統領の中でもトップクラスに登るなど、地味ながら実力派の大統領であると言えるでしょう。



さて、この映画のみどころは、「ジョンソンがいかにケネディの影を振り払うか」であると思います。

自らを"LBJ"と呼ばせたことに端的に表れていますが、ジョンソンはケネディにかなりの対抗意識を燃やし、同時に羨望していた。

そんなジョンソンが思いがけず、大統領に就任したとき、彼はどうしたのか。

ケネディが遺した最大の宿題の一つ、公民権法案を葬るのではなく、それを成立させた。


ジョンソンは南部出身ではありましたが、人種差別には反対しており、公民権法案にも賛成の考えでした。

だから、ケネディの代わりとしてでもなく、ケネディのやり方を真似るのでもなく、彼自身として、彼自身のやり方で法案を成立に導く。


人はだれでも自分より優れた(ように見える)を羨んだり、妬んだりすることがあると思います。

そして、闇雲にその人の真似をしたり、逆に全否定したり。

そして、そんな自分を嫌悪したり・・・。


けれども、そのいずれも必要のないことなのだと、私は思います。

もちろん、優れていると思う部分は取り入れればいい。

しかし、全てその人の真似をする必要はない。

自分なりのやり方で、自分の果たすべき責務に立ち向かう決意をしたとき、人は強くなれるのではないでしょうか。


劇中でも思いがけず、重責を担うことになったジョンソンは、苦悩します。

しかし、自分がどう転んでもケネディにはなれず、ジョンソンとして大統領の重責に立ち向かうしかないと気付いてからの彼の行動には迷いがなく、その姿は格好いい。


人はそれぞれに異なる役割と良さを持って、この世に生まれてきた、そんな気がします。

だから、「自分は自分」、それでいいんじゃないでしょうか。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

明日のために、今日耐えろ

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

お久しぶりです。

実に半年ぶりの更新です。

お休みしている間も色々と書きたいことはあって、前々から言っていた"挑戦"が一段落しましたので、久しぶりに書いてみることにしました。

これを機にブログを再開したいとおもいます。


さて、例の"挑戦"ですが、まだ結果は出ていませんが、不本意な形に終わる公算が高くなりました(詳細はまだ明かせませんが)。

今までの人生で最上クラスに入れ込んで、努力をしたつもりなので、残念でなりません。

致し方ないとは分かっていても、悔しさのあまり夜も眠れずにいます。


しかし、悔しがってばかりいても始まらないので、今次の手を考えているところです。


さて、今回のタイトルはアニメの「宇宙戦艦ヤマト」に出てくる沖田艦長のセリフを元にしました。

圧倒的なガミラス艦隊に対して、沖田率いる地球艦隊は冥王星域で最終決戦を挑みますが、敗北します。

沖田は再起を期すべく撤退を命じますが、その命令を拒否するミサイル艦ゆきかぜ艦長・古代守に対して言ったのがこのセリフ、

明日のために今日の屈辱に耐えるんだ、それが男だ

今時のアニメではお目にかかれないような男くさいセリフですが、私はこの言葉が好きで、大きな失敗をしたときに思い出すようにしています。



アニメ「宇宙戦艦ヤマト」(オリジナル版)第1話前半。件のセリフは9:25あたり。
余談ですが、私が「ヤマト」でいちばん好きな登場人物は沖田艦長です。


そう言えば、リンカーンも大統領になるまでに八回選挙に落ち、二回破産したといいます。

さらに恋人にも死なれ、子どもたちにも次々に先立たれ、遂には今で言うところのうつ病になります。


しかし、リンカーンは諦めなかった。

自身の理念を分かってくれない有権者に対して以上に、それを理解させられない自分に対して憤り、悔しさをバネに遂に大統領になったのでした。


リンカーンは、例えば子ども向けの伝記で描かれているような、人種平等主義者でも博愛主義者でも人道主義者でもありませんでしたが、少なくともこの不屈の闘志だけは尊敬に値すると思うのです。


スティーヴン・スピルバーグが監督したリンカーンの伝記映画。主演のダニエル・ルイスは本作で前人未到の三回目のアカデミー主演男優賞を受賞します。
奴隷解放を実現するために議員を買収する"ブラックなリンカーン"が描かれるのが見どころ。


それに倣って、そこに希望と可能性が僅かでもある限り、そこに賭けてみるべきなのかもしれません。

たとえ他人には愚かに見えたとしても。


幸か不幸か、私の挑戦には地球人類や国家の命運はかかっていません。

かかっているのはせいぜい、一人の無名の男の人生と幸福、それに夢と理想に過ぎません。

しかし、私にとってはかけがえのないそれらのために、私はまだ戦うつもりでいるのです。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

嬉しい出来事、そして、ひとまずのさよなら

いつも当ブログをお読みいただき、ありがとうございます。

めっちゃお久しぶりです。

もう最後に更新したのがいつなのかもよく覚えてませんが、最近はブログ以外にやることができたので、ずっと休んでました。

けれど、どうしても書きたい、嬉しい出来事があったので、今日は久しぶりに筆を執ります。


私の書いた記事が初めて見知らぬ人のブログに取り上げられました。


仕事を辞めようと思っていたが、思いとどまろうとしている・・・ - 四十路だけど ばかやろう


私の記事がo8gさんの心にどんな風に響いたのかは分かりません。

けれど、元々「だれか一人でも読んでくれた人が少しでも元気になってくれる」ことを目指して書いているブログですから、私の言葉がo8gさんの心に少しでも何かを残したのならこんなに嬉しいことはありません。


さて、長いことブログを休んでいるのは決して語りたい言葉がなくなったからではありません。

相変わらず本を読んで、映画を見て、恋をして、人生や仕事や愛について考えています。

読書量に関してはむしろ増えていますし、答えのない問いについて、自分自身と対話している。

そこで出てきた言葉をだれかに伝えたいと思うことも多々あります。


しかしながら、ブログで不特定多数の人に発信する以上、考えを整理して、言葉を慎重に選んで、読者の皆さんに伝えられるようにしなければなりません。

その作業にはどうしても一定の時間と労力が必要なのです。


ところがいま私は、ある挑戦をしていて、ブログのための時間と労力さえ、その挑戦に投入したい。

一冊の本がだれかの人生を変えることがあるなら、一人の司書や一つの図書館が世界を変えることだってできる–それが私の夢ですが、この挑戦はその夢につながる一歩だと思っています。


皆さんに伝えたい言葉は依然として尽きませんが、人生にはその時々で優先順位があると思っています。

だから、その挑戦が一段落して、自分の中で区切りがつくまでブログは休止します。


いつかまた、言葉を伝える日が来るでしょう。

その日まで、ひとまず、さようなら。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。