静かに、健やかに、遠くまで
いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございました。
春がだんだん近づいてきたと思ったら、また真冬のような寒さに逆戻りしましたね。
普段は滅多に雪なんか降らない私の街でも、今朝は雪がちらつきました。
さて、最近"静かに行く者は健やかに行く、健やかに行く者は遠くまで行く"という言葉をよく思い出します。
フランス生まれの経済学者レオン・ワルラスの言葉で、私の好きな城山三郎さんが度々引用しています。
レオン・ワルラス(1834〜1910)
フランス生まれの経済学者。フランス生まれではあるが、彼の学者としてのキャリアは主にスイスで築かれたので、「フランスの経済学者」とは言い難い。
国立学校を中退したり、理事を勤めていた銀行が倒産したりと、祖国フランスではぱっとせず、36歳でローザンヌ大学に職を得た。こうした経歴を見るあたり、ワルラスも結構"苦労人・遅咲き型"のような気がする。
経済学に数学的手法を取り入れ、その精緻な分析手法は近代的経済学の基礎を築いた。彼を初めとする系譜を「ローザンヌ学派」という。
「ワルラスの均衡」で経済学にその名を残す。
何となくいい言葉だなと思っていて、覚えていたんですが、ついこの間大きな挫折を経験して、その影響でメンタルがガタっと崩れて、また立て直してという経験を経て、その意味が本当にわかってきたような気がしています。
たとえば、私の挑戦にしてもかなり難易度が高く、よほど優秀な人でも運に恵まれない限り、成功するものではないと、今なら思います。
それが成功しなかったのは、私の努力が足りなかったからではないのだと。
また、それでメンタルが不調になったのも、自分で思っていた以上に一生懸命やっていたからで、がんばれない自分を責める必要はなかったのだと、今は思います。
努力が報われることの方がむしろ稀で、自分の力ではどうにもならないところで、自分の運命が動いていくことの方が多いのかもしれません。
人生という旅は、地図もなく舗装されていない道を行くようなもので、挫折に病気に災難、その他諸々とトラブルが実に多い。
時には立ち止まったり、回り道を余儀なくされることもある。
人間にできるのは、それでも旅をやめないことだけなのでしょう。
長い長い旅を一歩ずつ、自分のペースで。
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中身は"城山文学名言集"で、城山文学の雰囲気を知るにはうってつけの本
兎のように軽やかに行く人もあれば、亀のようにゆっくりな人もいる。
兎を横目に見ても、決して焦らない。
亀には亀なりの行き方があると分かれば、そのゆっくりとした道行きがむしろ愉快にさえ思えてくる。
ワルラスの言葉が言わんとしているのは、亀のような愚直さ、誠実さであるような気がします。
そう言えば、アレクサンダー大王は三十代半ばで亡くなるまでにギリシャからインドに至るまでの広大な帝国を築き上げました。
モーツアルトは十代で既にヨーロッパ中の宮廷で名声を得ていた音楽家でした。
モーガン・フリーマンが俳優として名声を博したのは五十歳になる頃で、カーネル・サンダースがケンタッキーフライドチキンを創業したのは、六五歳になってからでした。
人生のペースの多様なること、斯くのごとし。
やはり自分にあった速度で行くことが大事なのです。
私はたぶん、亀の方だけれども。
最後に名言をもう一つ
" その時々にできるだけのことをして、つまらん後悔はしないことだ。(中略)人にはそのくらいのことしかできんのだ"
byウッディ大尉(「機動戦士ガンダム」)
今回のような話を前にも書いたような、と思っていたら、3年前のブログを始めたばかりの頃の記事にありました。3年間の成長が見れる(だったらいいな)と思うので、こちらもお読みください(笑)
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
一人でいるのは賑やかだ
いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
遅ればせながら明けましておめでとうございます。
寒い日が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?
私は年末に発生したメンタルの不調はだいぶよくなりましたが、今度は風邪をひいてしまいました。
のどの痛み、鼻水、鼻詰まり、せき、それにしゃがれた声、なんていう風邪のフルコースを強制的に堪能させらてます(笑)
はたからもだいぶ辛そうに見えるようで、職場の女性陣から心配されるのだけは悪くありませんが(笑)
自分でも久々にキツめの風邪なんですが、不思議なことに熱は出ない。
いっそ高熱でも出た方が早く治るのかもしれませんが、それでも辛いから何日か仕事を休みました。
やたらに出歩くわけにもいかないので、基本的に部屋で過ごしていますが、自分しかいない部屋の中でぼんやりしてると色々なことを考えます。
そんな状況に置かれていると、一つの詩がよく頭の中に浮かんできました。
今日はその詩の話をしましょう。
それは茨木のり子さんの「一人は賑やか」という詩ですが、まずはその詩を読んでみてください。
一人は賑やか
一人でいるのは 賑やかだ
賑やかな賑やかな森だよ
夢がぱちぱち はぜてくる
よからぬ思いも 湧いてくる
エーデルワイスも 毒の茸も一人でいるのは 賑やかだ
賑やかな賑やかな海だよ
水平線もかたむいて
荒れに荒れっちまう夜もある
なぎの日生まれる馬鹿貝もある一人でいるのは賑やかだ
誓って負け惜しみなんかじゃない
一人でいるとき淋しいやつが
二人寄ったら なお淋しいおおぜい寄ったなら
だ だ だ だ だっと 堕落だな恋人よ
まだどこにいるのかもわからない 君
一人でいるとき 一番賑やかなヤツで
あってくれ
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茨木さんの詩集を読むのはこれが初めてでしたが、代表的な作品は一通り入っているので、これから入るのもいいと思います。
私はとても寂しがりやな反面、一人でいるのが好きでして。
あるいは、人の波に揉まれるのがひどく苦手といった方がいいかもしれません。
人混みには行きたくないし、大勢集まるような宴会に出ると、楽しんだとしても二時間もしたら帰りたくなる。
毎日だれもいない部屋に帰るのはわびしいよりむしろ、ほっとするところがあり、何より一人で趣味や考え事をしている時にもっとも充足を感じます。
茨木のり子(1926〜2006)
大阪府出身。十九歳のとき、敗戦を経験。結婚後、主婦業のかたわら詩作を続ける。韓国語を習い、韓国現代詩の紹介にも尽力した。
夫の死後、三十年以上一人で暮らしていたが、自宅で病死しているのを親族によって発見された。友人・知人などに宛てた遺書が複数用意されていたという。
代表作「自分の感受性くらい」、「わたしが一番きれいだったとき」、「倚りかからず」など。
厳しくも暖かい言葉によって紡がれた彼女の詩は、読むとしゃんと背筋を伸ばしたくなります。
そんな私にとって、この詩は自分のことを肯定してくれているような、自分の気持ちを代弁してくれているようで、初めて読んだときにとても嬉しく感じたのを覚えています。
「彼女もいなくて休日にひとりでも大丈夫だ!」と勇気をもらえます(笑)
他にすることもなく部屋にひとりでいると、自分が世界を変えられるような勇気が湧いてくることもある。
かと思えば、将来のすべてを悲観的に考えたり、悩まなくていいようなことで悩んだりする。
まさに「夢がぱちぱちはぜて」きて、「よからぬ思いも湧いてくる」わけですが、この実に忙しい自分の心が、文句を言いながらも結構好きだったりしてます。
さて、去年一年がかりで取り組んできた例の挑戦が頓挫してから、先のことを色々考えてます。
その結果、今まで「自分はこの道で行くんだ」と思ってたことを相対化することにしました。
先に夢や目標のようなものはぼんやり見えてますが、そこに至るまでの道は色々ある感じです。
拘りをなくしたことで自由になったようでもあり、縛りがなくなったことで行くべき道が分からなくなったようでもあり。
どちらにせよ、挫折していなければこんなことは考えなかった。
今のこの時間が、人生をより味わい深くしてくれたと、いつの日か思えるように、私は自分のすべきと思うことをしたいと思います。
そう言えば、"バスケットの神様"マイケル・ジョーダンは、「投げてしまったボールのことは気にしない」と言ったそうです。
終わったことをあれこれ考えがちな私には、薬になるいい言葉だと思っています。
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
一休さんの言葉で読み解く「中学聖日記」
いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
前に本ブログでも取り上げたドラマの「中学聖日記」が先日最終回を迎えました。
二人の恋が幸せな結末になったことを暗示するラストで、私としては大変満足な終わり方でした。
ですから、あれこれ論評するようなことは敢えてすまいと思っていましたが、色々と考えさせられるドラマでしたし、ネットの論評記事などを読むうちにインスパイアされました。
そこで今回は、愚行かもしれないと思いつつ、私の敬愛する一休さんの言葉からドラマ「中学聖日記」を私なりに読み解いてみたいと思います。
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さて、このドラマは中学教師の末永聖(有村架純)とその教え子の黒岩晶(岡田健太郎)が禁断の恋に落ちるというものですが、前の記事が晶目線で書いたものだったので、今回は聖目線で書きたいと思います。
最初、聖は自分に思いを寄せてくる晶を当然拒否します。
しかし、それでも自分に一途にぶつかって来て、自分の弱い部分も含めて愛してくれる晶に徐々に惹かれて行きます。
聖が自分の思いに気付いたとき、本当の意味でこの禁断の恋は始まるわけですが、そこからが俄然おもしろい。
今までは一生懸命世間の道徳や常識からはみ出すまいと生きてきた聖が、初めてそれを破る。
周囲は当然それを許さないわけで、聖自身も思いを断ち切ろうとしたり、やっぱり惹かれたり、それを繰り返す聖はどこか幼くて頼りない。
しかし、その迷う姿が人間くさくもあり、正直ではある。
そして、二人を引き離そうとする周囲の大人たちは「世間」を具現化しているようにも見えます。
人の生き方は極めて単純化して言えば、次の二つに分けられると思います。
常に世間の期待や規範を意識し、それに背かないようにする生き方。
あるいは、規範や道徳の一切合切を無視し、自分の思いや欲望に忠実になる生き方。
もちろん、実際はこの二つの極の間で人は揺れ動き、時に葛藤するわけですが、一休さんはこの矛盾にいかなる回答を示したのでしょうか。
その手がかりとなる言葉があります。
「この世にて慈悲も悪事もせぬ人はさぞやえんま(閻魔)もこまわりたまわん」
いいことも悪いこともしなかった人は閻魔様も裁きようがない、と言っているわけですが、私にはこの言葉が世間の矩を越えないことに汲々としている人への痛烈な皮肉に聞こえます。
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常に無難な道を選び、だれからも嫌われないように振る舞う人というのは、たしかにまちがいがないのかもしれません。
しかし、そういう人はつまるところ自分の平穏を守ることだけを考えていて、だれも不幸にしない代わりに幸福にもしないのではないでしょうか。
かと言って、傍若無人に自分の欲望のままに生きるのも、やはりだれも幸福にはしない。
その間で迷い悩み、さりとて世間に流されない生き方を一休さんは肯定している気がします。
聖と晶の恋は、周囲の人を確かに傷つけました。
しかし、その過程で晶は聖を守れるような大人の男になることを決意し、聖もタイの日本語学校の教師という、自分の道を見つけます。
その姿は見違えるほど逞しい。
例えばもし、聖が晶に恋しなければ、彼女は相変わらず人目を気にして生きるだけの女性だったかもしれない。
あるいは聖が徹頭徹尾、晶の思いを拒絶していれば、晶はそのことが一生のトラウマとなって、恋愛に臆病になっていたかもしれません。
聖の行動は教師として、大人としてまちがっていたのかもしれませんが、少なくとも自分ともう一人の人間の人生を大きく変えた。
おそらく、より幸福な方に。
そう考えると、この恋の是非は簡単には下せないと思うのです。
意図せずとも人はだれかを傷つけ、時として人の非難を浴びたり、嫌われるような行為をしてしまうもの。
であるならば、間違わないことや、敵をつくらないことに汲々とするのではなく、自分の信じることを思いきりやる方が、よほど人間らしいと、私は思います。
少なくとも私自身はそのように生きたいと思うのです。
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「半平のきまぐれ日記」年内更新はこれが最後となります。
今年も一年、ご愛顧を賜り、ありがとうございました。
来年もぼちぼちやっていきますので、よろしくお願いします。
私のそばにいてください、たとえ私があなたを突きとばしても
いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
まだまだ、心の燃料タンクが空の半平です。
気分がどうにも沈みがちで、なかなかしんどいんですが、苦悩こそ創作の源。
ヴェートヴェンの「第九」然り、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」然り、傑作とは悲しみと苦しみの中に得てして生まれるものです。
私も先人たちの例に倣い、ブログを書き続けることにします。
さて、今日は私の好きな谷川俊太郎さんの「願い」という詩の話をしたいと思います。
まずはその詩をお読みください。
願い
いっしょにふるえて下さい
私が熱でふるえているとき
私の熱を数字に変えたりしないで
私の汗びっしょりの肌に
あなたのひんやりと乾いた肌を下さい分かろうとしないで下さい
私がうわごとを言いつづけるとき
意味なんか探さないで
夜っぴて私のそばにいて下さい
たとえ私があなたを突きとばしても私の痛みは私だけのもの
あなたにわけてあげることはできません
全世界が一本の鋭い錐でしかないとき
せめて目をつむり耐えて下さい
あなたも私の敵であるということにあなたをまるごと私に下さい
頭だけではいやです心だけでも
あなたの背中に私を負って
手さぐりでさまよってほしいのです
よみのくにの泉のほとりを
谷川俊太郎、『自選 谷川俊太郎詩集』岩波文庫、329〜331頁
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「生きる」や「朝のリレー」のような国語の教科書にも載るような作品がなく、マイナーなものが多いのがおもしろい。
この詩集の中では、他にも「これが私のやさしさです」、「ほほえみの意味」、「美しい夏の朝に」なんかがお気に入り。
この詩を読んで、どうお感じになりましたか?
わがまま?弱虫?意味不明?
この詩を読むと、子どものときに母親に看病されたときのことを思い出します。
熱冷まシートより、母親におでこに手をあててもらう方が気持ちかったのを覚えています。
そのせいかどうか、数ある谷川さんの詩の中で、私はこれがいちばん好きです。
特に今のようにどうしてもがんばれなくて、気持ちが沈んでどうしようもないときは、いっそう心にしみてきます。
「大丈夫!」と思った次の瞬間に「もう無理!」ってなる。
がんばりたいのに、がんばれず。
前に進みたいのに、力が湧いてこない。
不意に泣きたくなり、仕事も何もかも投げ出したくなる。
まさに高熱にうなされて口走るうわごとのように支離滅裂です。
人が本当に落ち込んでいるとき、慰めや励ましはあまり意味がないと思うのです。
たとえ他人にとっては取るに足らないことに見えたとしても、その人にとっては深刻なことである可能性もあるし、それを否定することはだれにもできないはずなのです。
人が悲しみや苦しみの中にあって、塞ぎ込んだり、取り乱したり、あるいは無理に笑おうとしているとき、必要なのは言葉をかけてあげることでも、話を聞いてあげることでさえもないのかもしれません。
ただ、そばにいて寄り添ってあげること。
たとえその人に突きとばされたとしても。
もちろん、それは簡単なことではありません。
しかし、そんな人がいてくれることが私にとっての支えであり。
自分もだれかにとってのそんな人になれるかもしれないということが、私にとっての希望なのです。
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
何もないことの幸せ
メリークリスマス!
いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
今日はクリスマスですね(クリスマスは本来24日夜から25日夕方にかけてのこと。昔のヨーロッパでは、日没を一日の始まりとしていたので、24日の夜はクリスマスの夜=クリスマス・イブニング=クリスマス・イブなのです。この前NHKの「チコちゃんに叱られる」でやってました)。
昨日仕事でクリスマス絵本の読み聞かせをしたのですが、そのとき読んだ絵本がとてもよかったので、今日はその話をしたいと思います。
皆さんは「きよしこの夜」という賛美歌をご存知のことと思います。
歌唱・玉置浩二
オリジナル・ドイツ語
ちなみに絵本の最後に「きよしこの夜」を歌うところがあって、子どもたちと一緒に歌おうと思いましたが、子どもたちはだれも知らず・・・
一緒に読み聞かせをしていた同僚たちと、お母さんたちが歌ってくれました。ありがとうございます!
この曲は今からちょうど200年前の1818年、オーストリアの小さな村の神父ヨゼフ・モーデルが作詞し、その友人のフランツ・グルーバーによって作曲されたものと言われています。
その誕生までの逸話をもとに描かれたのが、今日紹介する絵本『クリスマスのうたものがたり』です。
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1818年のクリスマス直前、ヨゼフ神父の教会ではパイプオルガンが故障してしまいました。
オルガンがなくてはミサで合唱する賛美歌が演奏できず、神父は困り果てます。
そこに村の少年がやってきて、彼の家に弟が生まれたのでぜひ祝福して欲しいと頼みます。
貧しい少年の家では、赤ん坊がただ質素なベッドに寝かされているだけでしたが、赤ん坊の周りには家族の笑顔がありました。
その光景を見た神父は気づきます。
イエス・キリストは粗末な馬小屋で生まれたが、こんな風な温かな笑顔に迎えられたに違いない、と。
何もないが愛と喜びがある、それがいかに素晴らしいかと。
教会に帰った神父は、イエスの誕生の情景を元に詩を書き上げ、友人のグルーバーにオルガンではなく、ギターで演奏できるような曲をつけるように依頼します。
これが「きよしこの夜」でした。
この絵本を読んだとき、ハッとすると同時に、何とも言えず、胸が温かくなりました。
人はつい、生きているとあれこれ求めてしまうもの。
そして、それが得られないと失望したり、自棄を起こしたり、はたまた怒り出したり・・・。
けれど、ただ生きてあること、愛されていること、これがどんなに素晴らしいことか。
あなたや私がこの世に生まれて、今日まで生きたきたこと、それ自体がだれかに愛されている証なのだと思います。
私は愚かな人間ですから、ついつい欲をかいてしまいます。
それは仕方ないのかもしれません。
だからせめて、たまには何もないことの幸せを思い出すことにしましょう。
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
それでは皆さん、よいクリスマスを!
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絵柄もかわいくて、胸キュン必至なので、大切な人と読んでみてください。
悲しくてさびしい夜に聴きたい半平マイベスト
いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
今日は突然思いついた企画をやりたいと思います。
私は一人暮らし歴が結構長いので、夜独りでいるとき、無性にさびしさやもの悲しさを感じることがあります。
また、辛いことがあったとき、人恋しくなる夜も。
今日はそんな夜に聴きたくなる歌を個人的嗜好に基づく独断と偏見で、六曲選んでみました。
今回はあえて文章は最小限にしています。
一応、一言ずつコメントしてますが、そこも読み飛ばしてくださって構いません。
それよりも歌を、言葉を味わってください。
悲しくてさびしい夜を過ごしたことのある方、今まさにそんな夜を過ごしている方、あるいはそんな経験のない方も、歌詞とともにぜひこの曲たちを味わってみてください。
①コブクロ「風をみつめて」
一歩も進めないそんな今日は 未来の君がもう1mmだけがんばれる日のための雨宿り
なぜかうまく行かないときは、人生の雨宿り。
②ももいろクローバーZ「泣いてもいいんだよ」
泣きたいのなら泣いてもいいんだよ。
弱いあなたは人間らしい
自分の弱さを赦せるからこそ、他人の弱さも赦せるし、弱さを知るからこそ、強くもなれる。
④河島英五「生きてりゃいいさ」
生きてるだけで、それで十分。
⑤フォーククルセダーズ「悲しくてやりきれない」
悲しくてやりきれないこともある、言葉にならないモヤモヤもある。
それが人生だ。
⑥「ゴンドラの唄」
(映画「生きる」で主演の志村喬が歌ったバージョン)
なぜか一人で夜道を歩いているとき歌いたくなる曲。
命は儚く短い。
だから、やりたいことはすぐにやろう。
いかがでしたか?
皆さんのお気に入りの曲はありましたでしょうか?
あるいは、皆さんが今回のようなシチュエーションで聴きたい曲は何ですか?
ブログのコメント欄などでおしえていただけましたら幸いです。
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ただ、だれかを好きになるって、やっぱりいいと思います
いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
最近、例の"挑戦"が一区切りついて、これからの方針も立てて、緊張の糸が切れたのか、軽く燃え尽き症候群のような感じになっている半平です。
仕事が終わって、家に帰るとため息ばかりついたり、何もやる気がせずボーっとしたり・・・
心の燃料タンクがからになってしまったような状態で、新しい目標に向かって、色々しなきゃいけないけともあるんですが、前みたいにむくむくと意欲が湧いてこないというか・・・
一方で突き動かす何かも自分の中にあるので、騙し騙し、少しずつ勉強したりしてる状態です。
さて、今日は久々に恋バナをしたいと思います。
私自身が今恋をしているというのもありますが、今TVでやっている恋愛ドラマにハマっているもので。
それに半年くらい前に見た恋愛映画の話もしたいので。
どちらも、「だれかを好きになること」の良さを思い出させてくれる、いい作品だと思っています。
ドラマの方は、中学教師の末永聖(有村架純)と10歳年下の教え子・黒岩晶(岡田健史)の恋模様を描いく「中学聖日記」。
今度の火曜に最終回のドラマのダイジェスト映像を主題歌のUru「プロローグ」にのせて。
二人の切なくて苦しい恋が、実によく歌われている名曲です。
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そして映画の方は、17歳の女子高生・橘アキラ(小松菜奈)と、そのバイト先42歳のファミレス店長(大泉洋)の恋を描いた「恋は雨上がりのように」です。
主演の小松菜奈と店長役の大泉洋が原作のイメージにピッタリ。と言うか、小松菜奈かわいい。
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この二つの作品に共通するのは"年の差恋愛"と"禁断の恋"。
特に「中学聖日記」の方は、中学教師と中三の男子生徒という、はっきり社会的禁忌を犯す恋を描くドラマだったために、放送当初はかなり批判も多かったそうです。
私がなぜ、この二つの作品に共感できるのかと言えば、私もつい最近まで、10歳は年上であろう女性に恋をしていたから、そしてそれは禁断の恋と言えなくもなかった(不倫とかじゃないですよ、念のため)からだと思います。
結局色々考えて、相手の女性に思いを告げることなく、その恋は終わりましたが。
「中学聖日記」の晶にしても、「恋は雨上がりのように」のアキラにしても、まだ若いせいもあってか、恋する相手以外(あるいは相手のことすらも)見えていません。
まさに恋の情熱に突き動かされるままに行動していて、その姿はものすごく自己中心的ですらある(一応、お互いに惹かれあって行く展開にはなりますが)。
しかし、とても一途で純粋であるとも言えます。
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一見冴えない店長がアキラに惹かれつつも、手を出さずに"大人の男"としてアキラを導いていくのがかっこいい。こういう男に私もなりたい。
もちろん、恋には情熱だけでなくて、相手を思いやる気持ちも必要なわけですが、二人の姿を見ていると、"思いやり"を言い訳に、自分に嘘をついているだけなんじゃないかと気づかされます。
例えば私にしたところで、叶わないにしても敢えて告白して、きちんと振られるという選択肢もあったわけで。
相手の立場なんかを慮って思いを胸に秘めることにしたつもりで、実は自分が傷つきたくなかっただけだったり、叶わない恋を最後までやり遂げる強さがなかっただけだったり・・・。
少なくともそういう部分はあったと思うのです。
中年男性と女子高生の恋、教師と教え子の恋、どちらも社会の何らかのモラルに触れ、世間の多くの人から非難されるでしょう。
しかし、そこを取り払って考えれば、純粋に人が人を好きになって、惹かれ合うという構図だけが残る(もっと言えば、好きになった相手がたまたま、教師であり、教え子であり、中年男性であり、女子高生なだけだったとも言える)。
そしてそれは、とてもいいものだと思うのです。
その人のことを思うだけで胸が苦しくなったり、四六時中その人のことが頭を離れなくなったり、そこまでの恋をすることは人生でそう多くないのかもしれません。
あるいは一度もせずに生涯を終える人も少なくないのかも。
けれども、思いが強いからといって結ばれるわけではないし、本当に好きな人と結ばれることは、一生に一度あるかないかの幸運なのかもしれません。
けれど、たとえ多くの恋が挫折と失敗、涙に暮れて終わるとしても、人を好きになることには意味があると思うし、恋はすべきだと、少なくとも私は思います。
今の恋も正直見込みは薄いと思っていますが、今度は言い訳せず、後悔しないようにしたいと思います。
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聖は晶を突き放したり、寄り添ったり、教師と一人の女性の立場の間で揺れ動いていて、それが幼かったり不安定な印象を与えますが、そこが人間くさくて好きだったりします。
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。