雨ならずして花はなお落つ
私の趣味の一つに座禅があります。
月に一度、お寺で開かれる座禅会に参加していますが、そこでは座禅の後に和尚さんの法話を聴くことになっています。
今日はそこで聴いた話を一つご紹介したいと思います。
「不雨花猶落」(雨ならずして花はなお落つ)
読んで字の如く「雨が降らずとも花は落ちる」という意味で、中国の唐代の高僧・趙州和尚さんの言葉であると言われています。
(趙州従シン和尚 ※シン=言+念)
弟子に「朝顔は露を溜め、桐の葉は色を変えます。これにはどんな真理が隠されていますか?」と問われて、趙州和尚さんはこう答えました。
その意味を考えるのが禅の修行の一つなんだそうですが、今日は一つ、私なりに考えてみたいと思います。
(朝顔の花)
雨に打たれようが、風に吹かれようが、時が来れば花は落ちる。ただそれだけのことです。
花が咲くのにしたって、気温とか、水とか、土とか色々条件はあるにしても、それらが揃うのは単なる偶然に過ぎない訳です。
(桐の木)
だから、花が落ちようとも、朝顔が露を溜めようとも、桐の葉の色が変わろうとも、それ自体は単なる偶然、もしくは必然であって、そこに意味はない。
もっと大事なことは他にあるんだよー趙州和尚さんは、弟子にそう言いたかったのではないでしょうか?
そしてこれは、人間も同じだと思うのです。
(桐の葉)
例えば私が生まれるには、そもそも私の両親が出会わなきゃならないわけで、さらにその両親が出会い、さらにその両親が出会い・・・と無数の偶然が必要です。
でも、それはとどのつまり、単なる偶然でしかない。
(黄葉した桐の葉)
私がどうやって死ぬのか知りませんが(知りたくもないけど)、それが必然であることははっきりしてる。
生まれたことや、死ぬこと自体をどうこうすることはできない。
けれど、無数の偶然によってこの世に生まれ、たった一つの必然によってこの世を去るまでの時間に意味を与えることならば、人間にもできると思うのです。
誰によって与えられたのでもない、自分自身で見つけ出した意味をです。
私は、多動性障害と学習障害という、発達障害の一種と一緒に生きています。
そのために人に迷惑をかけたり、人のお世話になることが、人一倍多かっただろうと思います。
でも、だからこそ、自分の得意分野を活かして世の中にお返しをしたいと思っています。
その具体的な方法はまだ分からない部分もあるんですが、それが多分私の生きる意味、その大きな一つになるんだろうと思います。
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。