半平流!シンプルで分かりやすい三国志講座(後編)
皆様、GWはいかがお過ごしでしたでしょうか?
私は実家でひたすらグータラしてました(笑)
さて、前回(半平流! シンプルで分かりやすい三国志講座(前編) - 半平のきまぐれ日記)に引き続き三国志を最小限の固有名詞で、最大限シンプルに説明する2回シリーズ。
今日は赤壁後の歴史と、三国が最終的にどうなったのかをお話します。
【第3講 三国興亡史】
赤壁の戦いで、曹操の天下統一を阻止した孫権と劉備は、それぞれ「呉」と「蜀」を建国。三国並立へと至ります。
第3講ではそれぞれの国の興亡史を見ていきましょう。
魏(220~245年)
[曹操(155~220)]
魏王(※1)に昇り、魏を事実上建国しますが、自身が帝位に就くことはありませんでした。
息子、曹丕の代に漢から帝位を簒奪(さんだつ。平たく言えば乗っ取り)し、名実ともに魏王朝が成立します(220年)。
以後、5代にわたり曹氏の王朝が続きます。
ぶっちゃけ、魏だけで当時の中国の人口の3分の2を占めていたといわれ、国力の差は圧倒的でした。
だから、三国志は拮抗する三つの国の抗争というより、「一強二弱」の戦いの物語という方が実態には即しているでしょう。
呉(229~280)
[孫権(182~252)]
孫権が建国した国です。
孫権は父と兄の地盤を引き継ぎ、呉をつくり上げました。
民政の手腕に優れ、国力を充実させました。
蜀と同盟して魏と対抗しながら、形式的には魏の属国となるなど、強かな外交を展開します。
立ち回りの巧さは三国一かもしれません。
229年、孫権が皇帝即位。
以後、4代の王朝が続きます。
蜀(220~263)
[劉備 (161~223)]
農民出身の劉備は各地の群雄の間を渡り歩き、長く自前の領土に恵まれませんでした。
赤壁の戦い後の間隙を突いて、荊州南部(場所については【最終講】の前にある地図をご覧ください)の領有に成功します。
そこを足掛かりに益州を平定。
三つ巴に持ち込むことに成功します。
以後、息子の劉禅まで王朝は存続します。
「漢王朝の再興」を掲げ、必然的に魏と対立。
幾度となく、魏へ遠征しますが、力及ばず。
263年、魏に滅ぼされます。
【最終講 三国志、その後】
さて、最終講ではいよいよ三国志の物語が最終的にどうなったのかをお話しましょう。
最後に勝つのは果たしてだれか?!
蜀を滅ぼし、統一に王手をかけた魏ですが、次第に家臣の司馬懿(しばい)とその一族が台頭します。
そして遂に孫の司馬炎が帝位を簒奪。
「晋」(西晋)を建国します。
つまり、魏はかつて漢にしたのと、同じことをされたわけです。
一方、呉は孫権の後継をめぐる争いによって衰退して行きます。
そして、遂に280年、晋によって滅ぼされました。
つまり、三国を統一したのは、魏でも呉でも蜀でもなかったわけです。
また、晋もごく短期間で衰え、北方からの異民族の侵入もあって、中国は再び戦乱の時代に突入するのでした。
【あとがきのようなもの】
今回、読者の方のリクエストにお応えして、私なりに三国志の顛末を分かりやすくお話したつもりでしたが、いかがでしょうか?
三国を全く知らない方にも、そのアウトラインを理解していただくために、「何を省略し、何を話すか」を考えるのは意外に難しく、おもしろい作業でした。
三国志の記事はこれからも書いていく予定です。
今回はとにかくシンプルな説明を優先しましたが、次の機会ではもっと三国志の魅力をお伝えしたいと思いますので、よろしくどうか、おつきあいくださいませ。
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
【脚注】
※1「王」は皇族しか就けない位で自治権をもった領土を持つことができました。皇族でもない曹操が王になるということは、「国の中に国」をつくるようなもので、漢王朝の形骸化をいっそう進行させるものでした。