半平のきまぐれ日記

ADHD(注意欠陥多動障害)の会社員が本を読んで、映画を見て、あるいはその他諸々について思ったことを気まぐれに綴ります。(※本ブログはAmazonアソシエイトを利用しています。また、記事中の画像は、断りのない限りWikipediaからの引用、もしくはフリー素材を使用しています)

何が差別を生むか

いつも当ブログをご覧にいただき、ありがとうございます。


四月に入ってからも冬のように寒かったのが、急に春めいてきて、桜の開花も一気に進んだようですね。

最近、近場の有名な花見スポットと、近所の桜をたまたま立て続けに見ることがあったのですが、どちらも桜は桜、変わらずに美しいと感じました。


さて、今年度のアカデミー作品賞は「グリーンブック」という映画が取りましたが、先日見てきました。

舞台は一九六二年のアメリカ、クラブの用心棒をしていたイタリア系アメリカ人のトニー・バレロンガ(通称"トニー・リップ" ビゴ・モーテンセン)は、ひょんなことから著名な黒人ピアニスト、ドナルド・シャーリー(通称"Dr.シャーリー" マーハシャラ・アリ)の演奏旅行の運転手の仕事を引き受けます。

演奏旅行の旅程には人種差別の激しい南部も含まれていたため、トニーはシャーリーの護衛役でもありました。

二人は黒人向けの南部旅行ガイド"グリーンブック"を片手に南部を旅するのでした。



しかしトニーは、当時の白人の平均程度には黒人に対する差別意識を持っていました。

一方でシャーリーも白人社会の中で一定程度認められていたからこそ生ずる一種の白人に対する壁のようなものがありました。

おまけに複数の博士号を持つほど教養高いシャーリーと、腕っ節は強いが無教養なトニーは、水と油のようなもので出発当初から二人はギクシャクしてぶつかり合います。


そんな二人が色々な出来事を共に乗り越えるうちに、友情を育んでいく実話を元にした映画なんですが、差別を題材にしながらもシリアス一辺倒ではありません。

シリアスとコミカルが交互に描かれていて、ちょっとしたシーンやセリフの中に深い意味があって、オスカーを取ったのもむべなるかなと思える良作でした。



二人で一緒にフライドチキンを食べる、私がいちばん好きなシーンです


さて、初めはいがみ合っていた二人ですが、シャーリーは一見下品で粗野なトニーに次第に誠実さと人の本質を見抜く目があることに気づきます。

また、トニーも気位が高い堅物と思っていたシャーリーの中にある音楽への情熱や苦悩、シャーリーが自発的に南部に来たことを知ります。


"黒人"や"白人"、あるいは社会的階層の違いといった没個性的な記号として互いを見るのではなく、一人の人間としての色々な面を知ることで、二人の間に友情が芽生えます。


映画は実際の二人が終生変わらぬ友情を持ち続けたことが語られて幕を閉じますが、何か差別というものについて考えさせられる話だと思います。

私が思うに差別とは例えば憎悪ではなく、むしろ無知から生まれるのではないでしょうか。


差別には複雑な背景や要因があるのでしょうし、程度も様々でしょうから、一概に言うのは乱暴かもしれませんが、あの当時、黒人を差別していた白人の人々がことさら悪人だったとは私は思いません。

大多数はどこにでもいるような、ごくありきたりな人たちで、例えば"みんながそうしているから"とか、"昔からそうだった"とかいう理由だけで、自覚もなく"差別"をしていただけのように思えるのです。

黒人の中にも色々な人がいることを知りもせず、それを想像しようとさえせず、ただのレッテルとしてしか彼らを見ない、そんな態度が差別を生んだのではないでしょうか。



Dr.シャーリーがテレビ出演した時の実際の映像


そしてそれは、異国の過ぎ去った過去の話ではなく、我々にも当てはまるのではないでしょうか。

例えばあなたの身の回りにどうしても好きになれないとか、苦手な人、もっと言えば嫌いな人はいませんか?

もちろん、私にもいます。

あなたがその人を嫌うのは相応の理由があるかもしれないし、その感情を否定することはだれにもできませんが、少なくともあなたに見えていることが、その人の全てでないことを想像する程度の謙虚さは必要ではないでしょうか?


人である以上、他者に好悪の感情を持つことは仕方ないと思います。

けれど、それだけで人を見ること、またその感情を善悪といった価値判断と結びつけること、それは慎むようにしようと、私は思っています。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。