「弱い」ということの価値
いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
うだるような暑い日々が続きますが、皆さんお元気でしょうか?
私は7月の下旬から復職しました。
毎日しんどいですが、スモールステップを踏みながら何とかやっています。
先日少しショックな出来事がありまして、就労移行支援事業所に通っていた頃に私を担当してくださった職員さんが、急遽退職されることになったそうです。
就職してからも何かと相談に乗っていただいたりして、家族にも言えないこともその人になら言えたりしました。
足かけ5年ほどずっと私を見守ってくれていた、心情的にはお姉さんのような人でした。
だれかと出会うことは、どんな形であれ、すなわち別れが約束されたことであると頭では分かっていても心の一部が欠けてしまったような、そんな喪失感がぬぐえません。
この喪失感は消えないとしても、いつか慣れていくのでしょうか?
さて、今日は好きなドラマの話をしたいと思います。
2020年1月から2月にかけてNHK「土曜ドラマ」枠で放送された、「心の傷を癒すということ」。
阪神・淡路大震災の際に自らも被災しながら、被災者への精神医療活動に当たった、安克昌医師の同名手記が原案です。
安医師をモデルとした主人公の精神科医・安和隆を柄本佑さんが演じ、妻役の尾野真知子さんや恩師役の近藤正臣さんらが脇を固めます。
主演の柄本佑さんが、いかにも優しくて繊細そうな医師役を好演していて、こんなお医者さんがいたら何でも聞いてもらいたくなりそうでした(笑)
ドラマの元になった手記。被災者の精神救護にあたる中で、著者の安医師自身も精神的な変調の兆しが見られるなど、被災地においては救護者もまた傷ついていたのだ、ということがよく分かります。
安医師は2000年に39歳で病死されていますが、下段はその追悼文などを所収した増補版です。
それはさておき、今回はこのドラマで特に印象に残ったシーンについて話しましょう。
それは安が避難所で小学生の男の子と話すシーン。
地震で祖父が行方不明になったその子に、辛いことがあれば我慢せずに話すようにと言う安。
「男のくせに弱音を吐いたらおじいちゃんに笑われる」という男の子に対して、安が語りかけたのが次のセリフ。
「弱いってええことやで。弱いから他の人の弱いとこが分かって助け合える。おっちゃんも弱いとこあるけど全然恥ずかしいと思てへん」
休職中に私はこのドラマを見返しましたが、このセリフを聞いた途端に声を上げて泣いてしまいました。
今回の私もそうですが「心が折れた」人は、大なり小なり折れた自分に対する罪悪感や、自責感を持っている人が多いと思います(私は今でもありますが)。
そんな私に対してこのセリフは、自分の「弱さ」を肯定されたようで、気がついたら泣いていました。
前の記事(柔らかな皮膚しかないわけは・・・ - 半平のきまぐれ日記)にも書きましたが、私は人間の持つ「弱さ」にはそれ自体、価値があると思います。
それは「弱さの中の強さ」というような、結局は「強さ」の肯定であるというようなものではなく、「弱さ」は弱さとして価値があると、私は思うのです。
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ドラマ版です
私は人間と動物の最大の違いの一つは、「弱くても生きられる社会」をつくったことだと思っています。
動物にも親が子どもを守るというような意味での弱者保護はあるでしょう。
人間はそれだけではなく、自分とは縁も所縁もないような「弱者」も守ろうとする。
何百年、何千年の試行錯誤の結果ではありますが、「社会福祉」としてそれを制度化までした。
そういうところに人間と動物の最大の違いを、私は見るのです。
ドラマと手記の両方で、安医師は問いかけます。
「今後の日本の社会は、この人間の傷つきやすさをどう受け入れていくのだろうか。傷ついた人が心を癒すことのできる社会を選ぶのか、それとも傷ついた人を切り捨てていく厳しい社会を選ぶのか」
今後、社会の変化は加速することはあっても減速することはないでしょうし、気楽に未来を考えることもなかなか難しい。
こぼれ落ちる人が増えても、人々はそれを思いやる余裕を失っていくかもしれません。
安医師の問いかけは21世紀の日本で、むしろ重みを増しているように思えます。
もちろん私は、前者の社会になっていくことを望みますが、そのために自分にできることはないかと、今考えているところです。
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。