半平のきまぐれ日記

ADHD(注意欠陥多動障害)の会社員が本を読んで、映画を見て、あるいはその他諸々について思ったことを気まぐれに綴ります。(※本ブログはAmazonアソシエイトを利用しています。また、記事中の画像は、断りのない限りWikipediaからの引用、もしくはフリー素材を使用しています)

【人生の10冊】人間一匹、未練もなければ悔いもない

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。


今年の冬は例年よりも厳しく、また長かったような印象でしたが、ようやく暖かくというか、昼間は少し汗ばむような初夏の陽気になってきたように思います。

皆様はお変わりなくお過ごしでしょうか、私の方は前に勤めていた会社を退職しまして、縁あって新しい会社で働かせていただいております。

全てが希望通りというわけではありませんが、前の会社よりはるかにストレス少なく心穏やかに働かせていただいております。

精神的に追い詰めてくる上司がいないだけで断然に働きやすくなるということを痛感する今日この頃です(笑)


さて、最近ふとしたきっかけから、自分の人生に影響を与えた(与えるであろう)10冊を選んでみました。

せっかくなのでそれらについて1冊ずつ記事を書きたいと思います。

ちなみにその10冊は以下のとおり。

山本周五郎『さぶ』
ヴィクトール・フランクル『夜と霧』
城山三郎『打たれ強く生きる』
唯円歎異抄
手塚治虫火の鳥
坂口尚『石の花』
山本周五郎赤ひげ診療譚
・鉄人者編集部『弱った心がラクになる後ろ向き名言100選』
・南直哉『老師と少年』
雨瀬シオリ『ここは今から倫理です』

すでに記事を書いたことのある本も含まれていますが、それらについても新たに記事を書くことにします。

目標は月1本以上の更新。

では始めていきましょう。

記念すべき(かどうかは知りませんが)1本目は山本周五郎『さぶ』。



山本周五郎の作品は20代の終わりごろから読み始めました。

ちなみに私の好きな作家の変遷はざっくりまとめると赤川次郎(小学校高学年~中学生時代)→司馬遼太郎(中学時代)→浅田次郎(高校時代)→高杉良(高校時代~大学時代)→城山三郎山崎豊子藤沢周平(大学時代~20代中頃)→山本周五郎(20代終わり~現在(30代初め))。

過去に好きだった作家は好きな作家として残り続けはする(あっ、でも赤川次郎は中学時代、司馬遼太郎は高校時代を最後に読んでないか。嫌いというわけではないけど)んですが、それぞれの年代でいちばん熱心に読んだ作家というわけですね。


とりわけ山本周五郎は社会に出て、それなりに苦労してはじめて読めるようになりました。

少なくとも大学時代以前の自分が読んでも、良さがわからなかったと思う。

例えて言うならば子どものころには分からなかった、秋刀魚の味を知った感覚です(余計分からなくなった?)。


私の中では例えば城山三郎なんかは人間の可能性や強さ、聡明さを描くという印象があって、主人公が悲運の最期を遂げるとしても、困難な運命に果敢に立ち向かう姿を見せられることで勇気づけられることが多い(反対に山崎豊子なんかは救いようのない人間の愚かしさを描くのが上手くて、読後感は重くなるんですが(笑))。

今より若い頃はその明るさ、格好良さが好きでよく読んでいましたが、自分なりに色んな経験をしてその度に右往左往して、自分の弱さも知った今となっては、その明るさを素直に信じることはもはやできそうにない。

有り体に言えば「人間そんないいもんじゃねえよ」と(笑)


山本周五郎はその点、人間の強さと弱さ、賢さと愚かさ、美しさと醜さ、最良の部分と最悪の部分の両方を描いて、その上でそれらの間を往き来する存在として、人間を肯定するところがある。

「そんないいもんじゃない」からいいんだよと言ってくれてる気がするのです。


おっと、1000字以上も書いてまだ本題に入っていませんでした。

『さぶ』は周五郎作品の中でも後に紹介する予定の『赤ひげ』と並んでいちばん好きな作品です。

時は江戸時代の後半、表具屋の大店「芳古堂」でともに奉公する栄二とさぶ。

二人は親友でしたがなんでも器用にそつなくこなす栄二と、不器用でいつまでも経っても糊の仕込みしかさせてもらえないさぶは、対象的な二人でもありました。


栄二は一人で仕事も任され、のれん分けも近いと見られていました。

そんなある日、栄二を災難が襲います。

仕事で出入りしていた得意先から高価な金襴の切を盗んだ疑いをかけられたのです。

これは濡れ衣でしたが長年奉公していた店の主人からも信じてもらえず、疑いを晴らそうとして行動するほど事態は悪化し、挙句の果てに栄二は石川島の人足寄場(幕府がつくった犯罪者収容施設。比較的罪の軽い囚人に技能を身につけさせ更生させることを目的とした。世界初の更生施設ともいわれる)に送られます。



人足寄場についてはこちらの記事も参考にお読みください。


世の中を恨みだれも信じず、自分を陥れた人間に復讐することだけを考えていた栄二にさぶだけが変わらず寄り添い続けます。

何度拒まれても栄二に会うために石川島に通い続けるのでした。


そんなある日、栄二は寄場での作業中に事故に遭い、急死に一生を得ます。

危うく命を失いかけたときに栄二が思わず呼んだのはさぶの名でした。
そして、自分が決して心を開かなかった囚人仲間が必死に自分を助け、その生還を我が事のように喜んでいるのを見て、栄二の中で何かが変わり始めます。


本作は題名こそ『さぶ』ですが、その内心が直接的に描かれるのは栄二だけで、全て栄二の視点で物語は進みます。

その意味で主人公は栄二だと言ってもいい。


けれどももう一人の主人公はまちがいなくさぶです。

さぶは栄二のように器用でもないし、人を疑うことも知りません。
いつもおどおどしていて正直で真面目なこと以外、何の取り柄もないようにさえ思えます(ちょうど宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」に出てくるような)。

けれど栄二に寄り添い続けた、その愚直さが栄二を救い、彼を立ち直らせる力になった(おそらくさぶは、栄二を見捨てることなど考えもしなかったにちがいないでしょう)。

愚直とは「愚か」なまでに「真っ直ぐ」であると書きます。

今の世の中、やたらと「効率」とか「コスパ」という言葉が言われていて、「要領よく」生きることが重視され過ぎているような気もしますが、さぶの姿を見ていると愚かなまでに真っ直ぐであることが、どれほど得難く貴重な資質であるかということが思い出されるのです。


さて物語の最後、栄二は「寄場での三年は娑婆での十年よりためになった」という心境に到達します。

そしてラストシーン、心から栄二にさぶという人がいてよかったと思えます。

それはぜひとも実際に読んでみて確かめてほしいんですが、私も栄二ほどではないにせよ、それなりに苦労したと思っています。

自分の人生になんの希望もないと思ったこともあります。

けれどもそういう苦労を経験する前の自分と、経験した後の自分では迷いなく後者の方が好きだと言えます。

もっと言えば、そういう苦労を経験しないまま齢を重ねていたら、ひどくつまらない人間になっていたような気がするし、あるいは独善的な人間になっていた気もします。

だから栄二の気持ちにとても共感できる。


自分がどれほど気をつけていたとしても、栄二のように理不尽な運命に見舞われることはだれにでも起こり得ます。

何をしようと何をすまいと災難に遭う時は災難に遭うし、苦労する時は苦労するし、うまくいかない時はうまくいかない。

それはただ受け止めればよいのだと、最近思うようになりました。

たかが人間一匹、悔いたり未練を持つようなことはないのです。

ただ、その時々を生きればよいのです。

そうすれば寄り添ってくれる人がいることに気づくかもしれないし、希望があることにも気づくかもしれないのですから。


今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。