半平のきまぐれ日記

ADHD(注意欠陥多動障害)の会社員が本を読んで、映画を見て、あるいはその他諸々について思ったことを気まぐれに綴ります。(※本ブログはAmazonアソシエイトを利用しています。また、記事中の画像は、断りのない限りWikipediaからの引用、もしくはフリー素材を使用しています)

【人生の10冊】正しく生きられるだけじゃない、人生だから

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

 

 

先日、職場で健診があったのですが、1年以上ぶりに体重を計ったら1キロ以上太っていました。

 

BMI値を計算してみたら肥満度1でしたので多少心を入れ替えてダイエットしようとおもっています。

 

けれど通勤経路においしい和菓子屋さんがあってついつい帰りに買い食いしてしまうのですが(苦笑)

 

 

さあ、気を取り直していきましょう、人生の10冊シリーズの3冊目。

 

今日は10冊の中で唯一の古典にして宗教書、唯円歎異抄』です。

 

 

 

 

 

 

浄土真宗の開祖・親鸞の弟子の唯円が師の教えを正しく伝えるべく著した、親鸞の言行録&親鸞の教えの解説書です。

 

 

作家の司馬遼太郎の愛読書としても有名で、彼は「無人島に1冊持っていくなら歎異抄を持っていく」と語っていたとされ、若き日に出征した際にも歎異抄を携えていったといわれています。

 

 

学生時代に親鸞唯円を題材にした倉田百三の『出家とその弟子』を読んだことが、私が『歎異抄』を読むきっかけでした(『出家とその弟子』にも色々思い出があるのでいつか書きたい)。

唯円親鸞の言ったことをかなり細かく覚えていて、彼の師に対する思いの程が伺えます。

 

歎異抄といえば善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや(善人でさえ救われるというのに悪人が救われないということがあるでしょうか)(※引用文は適宜現代仮名遣いに改める。また、訳文は筆者による。以下同じ)という一節が有名ですが、他にも私が好きなのをいくつか拾ってみましょう。

 

悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえに(いかなる悪であっても阿弥陀仏の「すべての生きとしいけるものを救う」という誓願を妨げるほどのものではないのですから、恐れる必要はありません)

 

苦悩の旧里は捨てがたく、いまだ生まれざる安養浄土は恋しからず(苦しみに満ちたこの世は去りがたく、安らぎに満ちた浄土に行きたいとは思われないのです)

 

わがこころのよくてころさぬにはあらず、また害せじとおもうとも、百人・千人を殺すこともあるべし(私の心が善であるから人を殺さなかったのではなく、それをするだけの縁がなかったからです。また、いくら殺すまいと思っても縁さえあれば100人でも1000人でも殺すでしょう)。

 

 

私は歎異抄を通読したのは最初に読んだときを除けば、今回記事を書く前に読んだくらいですが、時々上記のような好きな一節を拾い読みしたり、思い出したりしていて、その度に救われたような気分になっています。

 

 

私は数ある仏教の教えの中でも親鸞の教えがいちばん好きなんですが、その理由は「信じようが信じまいが、善だろうが悪だろうがすべての命あるものを等しく救う」と説いていることです。

 

たとえば不幸にして罪を犯してしまったような人も(それこそ連続殺人犯のような人でも)少なくとも最初から罪を犯すべくして生まれてきたわけではない。

 

その行為は正当化できないとしても、そこに至るまでには無数のターニングポイントがあったはずだし、中には本人の責任に帰せられないようなこともあったでしょう(私は大切な人をだれかに殺されたこともないからこのようなことが言えるのかもしれませんし、自分がその立場になっても同じことを言える自信はありません。けれども私は自分なりに考えたうえであえて言おうと思います)。

 

 

そこまで極端な例を持ち出さなくても、正しいことをしたい、善いことをしたいと思っていたとしても、結果的にそうでないことをしてしまうことはだれにでもある。

 

その度に後悔したり、自己嫌悪したり・・・歎異抄に書かれていることというのは、そういう人間に寄り添ってくれる言葉であると、私は思います。

 

だからこそ、1000年近くこの本が読み継がれているのでしょう。

 

 

私はこれからも歎異抄に書かれている言葉に何度も救われるでしょう。

 

正しいことだけできるわけでもなく、善いことだけできるわけでもない、この人生において。

 

 

今日はこんなところです。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

三千院阿弥陀三尊像。阿弥陀如来の脇に控える観音、勢至の両菩薩の姿勢が前かがみになっているのは、衆生に「そこでお待ちなさい。救いに行ってあげますよ」という意味だそうです。

 

 

蛇足:先日映画の「シン・ウルトラマン」を見てきましたが、理屈抜きで人間を好きになって、献身的に守ろうとするウルトラマンの姿を見て阿弥陀仏を思い出しました。