安倍元首相の訃報に接して
いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
昨日、とても衝撃的で悲しいニュースが日本中を震撼させました。
1936年の二・二六事件以来となる首相経験者の殺害。
青天の霹靂のようなこの事件に私も非常なショックを受けている者の1人です。
今日は自分の気持ちに整理をつける意味と、私なりに呼びかけたいこともあり、記事を書くことにしました。
まず記事を書き始めるにあたり、安倍元首相のご冥福を心からお祈りするとともに、ご遺族と関係者の皆様に心からお悔やみを申し上げます。
8年の長きにわたり首相の重責を担われ、時に病身をおして内外の困難な政治課題に立ち向かわれた姿は、間違いなく日本の政治史上に残る偉大な政治家のそれでした。
謹んで哀悼の意を捧げます。
さて、今回の事件に関して容疑者の動機や背景がまだつまびらかではありませんが、政治家に対する暴力行為は、一個人に対する犯罪であると同時に民主主義に対する重大な脅威であり、理由のいかんを問わず決して擁護されるべきものではありません。
しかし一方で、日本の憲政史をつぶさに見ていくと、日本が政治的テロと無縁ではなかったことに気づかされます。
たとえば戦前においては6人の現職首相や首相経験者が暗殺の憂き目に遭っています。
戦後も浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件や伊藤一長長崎市長射殺事件など、政治家に対するテロ事件は枚挙にいとまがありません。
また、70年代の赤軍派によるテロ事件や、90年代のオウム真理教のテロ事件も暴力による政治体制の変革を目指した政治テロでした。
人類の歴史上の大部分において政治権力の移行や政治体制の変化は、暴力と流血をともなうものでしたが、近代民主主義はそれを言論活動と選挙による穏当な方法によってなそうというものでした。
しかしながら、民主的な手続を踏んで行われた決定にどうしても納得しない人間は、必ず一定数いるものです。
その中の「使命感過剰、思慮過少」な連中が愚かにも実力行使に及び、不幸にもその凶刃が実際にだれかを傷つけ、殺してしまう可能性は常にある。
その意味で、民主主義とは常に潜在的な暴力の脅威にさらされ続けているといえるでしょう。
だからこそ、国民一人ひとり、有権者一人ひとりが民主主義を守るべきであると思うのです。
戦前の日本にも議会制民主主義が存在していた時代がありました。
しかし、それは機能不全におちいり、やがて軍部主導の独裁的な政治体制に取って代わられました。
その理由の1つは、1920年末から30年代にかけての一連の政治テロ(先に述べた6人の首相らの暗殺のうち、4人はこの時期に殺害されています)によって多くの政治家が凶刃に倒れ、残った政治家(だけではなく言論人や一般大衆も)は暴力への恐怖から口をつぐんでいったことにあるでしょう。
議会政治が死んだ後に取って代わったのは軍部主導の独裁的な政治体制で、その体制の下で国民の自由は大幅に制限され、やがてその政府は国家と国民を戦争による破局へと導きました。
その過ちを繰り返さないためにも私たちは、戦前以来86年ぶりに首相経験者がテロの凶弾に倒れたこのタイミングで、民主主義を守るための行動をする必要があると思うのです。
それは決して大げさなことでも難しいことでもありません。
いつもと変わらぬ生活を送り、明日に控えた選挙を粛々と行う、ただこれだけです。
暴力によって社会は1ミリたりとも変えられないということを示すのです。
他にもいるかもしれない、よからぬ企みを抱いている連中に自分たちの無力を悟らせなければなりません。
私は様々な問題はあるとしても(いま私がしているように)、だれもが自由に発言でき、自由に表現でき、自由に行動でき、自由に生きることができる、今の日本が大好きです。
そして未来にこの国を生きる人々にも、そういう日本を残したいと思う。
何度も繰り返しになりますが、自由な言論活動と民主的な選挙、その他の自由が保障されている今の日本において、暴力によって政治を変えようとする人間は(いかなる思想信条、理想を持っていたとしても)、愚か者であり卑怯者以外の何者でもありません。
たとえば将棋に勝てないからといって、盤をひっくり返すような―その程度の人間に負けないためにも明日からもいつもと変わらぬ生活を送り、人生を楽しみ、そして胸を張って投票をしましょう。
私ももちろん、選挙に行きます。
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。