半平のきまぐれ日記

ADHD(注意欠陥多動障害)の会社員が本を読んで、映画を見て、あるいはその他諸々について思ったことを気まぐれに綴ります。(※本ブログはAmazonアソシエイトを利用しています。また、記事中の画像は、断りのない限りWikipediaからの引用、もしくはフリー素材を使用しています)

あなたは、何と出会いますか?

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[渋沢栄一(1840~1931)

現在の埼玉県深谷市に裕福な農民の子として生まれる。第一国立銀行(現・みずほ銀行)、王子製紙(現・王子製紙日本製紙)、帝国ホテル、東京証券取引所など、生涯に500を越える企業の創設に携わり、「日本資本主義の父」とも呼ばれる。
ちなみに余談だか、筆者の大学時代の卒論にはこの人の息子が出てきた。そういうこともあって、親近感を抱く人物]


いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

実は最近、自治体の司書採用試験を立て続けに控えていたり、司書講座の定期試験があったりして、ブログをゆっくり書く時間が取れないのが悩みの種でございます。

それでもマイペースに更新を続けていきたいと思いますので、どうかよろしくお願いします。


さて、生きていれば人やら出来事やら、色々なものに出会いますよね。

素敵な異性と知り合う、気の合う友達と出会う、犬の糞を踏む、宝くじに当選するetc.

喜ばしい出会いもあれば、そうでない出会いもある。

今日は人生における「出会い」というものについて、少し考えてみたいと思います。

少しだけ、無理をして生きる (新潮文庫)

少しだけ、無理をして生きる (新潮文庫)


このブログでも何度もお出ましいただいている城山三郎さんのエッセイに「人は、その性格にあった事件にしか出会わない」という一編があります。

内容は読んで字の如しなんですが、よく「不幸な出来事にばかり遭遇したから、暗い性格になった」とか、逆に「幸運にばかり恵まれたから、明るい性格になった」式の論法を見かけることがあります。

けれど、これは果たして本当でしょうか?

城山さんは出会いが性格をつくるのではなくて、性格が出会いをつくるのだと言います。


例えば明治の大実業家の渋沢栄一

この人は、若き日に討幕運動に失敗して、京都の一橋家に逃げ込みます。

そこで持ち前の好奇心と学習欲で、色々なことを吸収して、そして意見を言う。

それが当主の一橋(徳川)慶喜の目に留まって、彼の弟に随行して、パリに派遣されて、そこでも色々と吸収する。

その知識を見込まれて明治政府に取り立てられたり、明治政府での経験が渋沢を実業家に転身させるきっかけになったりしたわけです。


あるいは、渋沢の従兄弟の喜作という人。

この人は、一橋家に逃げ込むところまでは、渋沢と行動をともにしますが、彼は一橋屋敷で剣術に打ち込む。

腕を見込まれて、幕府陸軍に入り、戊辰戦争を戦い抜きます。


渋沢と喜作の対照的な人生は、まさに「性格が出会いをつくる」の好例と言えるでしょう。


このエッセイを初めて読んだとき、正直私は意味がよくわかりませんでした。

けれど、最近になって段々わかってきた気がします。

自分で言うのも何ですが、大学を出てからの2、3年は、その10倍の時間を生きた気になるような、激動の人生だったと思います(今もその最中にいますが)。


明日も見えない日々で辛いことの方が多い日々でした。

でも、この時間があったからこそ、尊敬すべき人とたくさん出会えたし、自分の人格も前よりましになったし、何よりも自分が本当にやりたいことを見つけることができたのでしょう。

それというのも、良くも悪くも一本気で諦めの悪い性格故だったと、今では思います(笑)


自らの人生を切り開こうとする限り、天は人を、必要な出来事に出会わせ、必要な人に引き合わせてくれるのだと、なぜか今ではそう思えます。


今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

また、冒頭でも申し上げましたように、近々自治体の司書採用試験を立て続けに控えておりますので、次にいつ更新できるかわかりません。

今日は息抜きの更新でした(笑)

読者の皆様におかれましては、気長にお待ちいただければ幸いです。

人が人であるために

いつも当ブログをご覧いただき、まことににありがとうございます。

お久しぶりです。

お元気でしたでしょうか?


さて、ダッダッダッダッダ、ダッダッダッダッダ、のメロディーと言えば、映画の「ターミネーター」です。

人類に反乱を起こした人工知能(AI)・スカイネットと、人類の時空を越えた死闘を描いたこの映画は、まさにSF映画の金字塔と呼ぶに相応しいでしょう。

かく言う私もこの映画のファンでして、子どもの頃からビデオやDVDを、それこそセリフを暗記するぐらい繰り返し見てました。


スカイネットは自我と高い知能を持ち、人類を滅亡寸前に追い詰めますが、スカイネットのように人類を越えるAIが今世紀中に誕生する可能性が、一部の知識人やメディアなどの間で、まことしやかにささやかれています。

いわゆる「シンギュラリティ(技術的特異点)仮説」と呼ばれる考え方ですが、それによると、2045年頃にはAIが人類の知性を追い越してしまうといいます。

AIが人類を追い越さないまでもあと10年、20年くらいで人間の仕事のかなりの部分がAIで代替されるという話もあって、就職活動中の身としては、結構気になる話だったりします(笑)


そこでAI関係の本や記事をよく読んだりしているんですが、その中でいちばんおもしろかったのが、今日ご紹介する1冊です。



著者は日立のコンピュータ・エンジニアから、情報学の研究者に転身し、歴史小説なども執筆し、文系・理系の枠に囚われない学際的な研究を展開する異色の研究者です(西垣通 - Wikipedia)。

本書もその例にもれず、単にAIの話だけでなくて、読み終わった後に、「人間とは何か?」、「意識とは何か?」というテーマについて、深く考えさせられました。。


著者はAIが人間のような知性や感性を持つことはあり得ず、人間の仕事を奪うこともないと断言します。

その理由は生物とAIが全く違う存在だから。

そして、生物とAIの違いは大きく二つある。


まず、人間を含む生物の意識が、全くの閉鎖系であるのに対し、AIはそれを覗き見ることができます。

例えば人間の場合、「彼が何故それをしたのか」ということは、推測することはできても、心を覗き見ることができない以上、それを知ることはできないわけです。

犬や猫、魚であってもこれは同じです。

しかし、AIの場合、あくまで機械ですから、結局はエンジニアが書いたプログラムに沿って行動しているに過ぎない。

一見不可解な動きをしたとしても、プログラムを分析すれば、その理由が分かるというわけです。


次にAIは、過去の膨大なデータを学習することができますが、逆に言うならばその枠を出ることができません。

対して人間は過去の経験に学びつつも、それを越えた飛躍や閃きというものをなし得る。

こうした未知の状況に対処する能力は生物の生存にとって、必須でしょう。

それをもたらす柔軟性で言えば、人間は群を抜いている。


[ウィル・スミス主演。汎用人型ロボットが普及した近未来の世界で、その開発者であるロボット学者が何物かに殺害される。
それをロボットによる犯行と睨んだロボット嫌いの刑事は一人捜査を開始するが、事件の裏には超高性能人工知能が人類に対して起こそうとしている反乱があった・・・
主人公の刑事がロボットと和解するラストシーンが好き]


それがいかに人間のように見えたとしても、AIもあくまで機械であり、コンピュータに過ぎないでしょう。

別に恐れたり、忌避したり、過度にありがたがることもない。

であるならば、人間とAIの付き合い方も見えてくるのではないでしょうか。


AIの利点とは、人間が逆立ちしても勝てっこない処理能力にある。

人間が処理し得ないような膨大なデータを解析し、そこから傾向や特徴を探り出したす。

人間が見落としてしまうような。

つまり、AIは人間の判断を助けるための有用な道具であるわけです。


ここで忘れてはならないのは、AIはあくまで判断を「助ける」存在であって、判断を「下す」存在ではないということ。

道具を使うのが人間であって、道具に使われてしまってはそれは人間であることを放棄したに等しい。


AIが音楽に感動して、自分も人を感動させる音楽を作ろうと思うことはあり得ない。

病気に苦しむ人に涙して、新しい薬を開発したいと思うこともないでしょう。

それはあくまで人間の仕事です。

ただ、その遠くて困難な道行きの足元を照らしてくれる、松明や懐中電灯にはなってくれるのではないでしょうか。


今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

また、この記事をお気に召していただけましたら、シェアしていただけますと光栄です。

革命に賭けた男たち―『物語 フランス革命』

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[今日の主人公の一人、マクシミリアン・ロベスピエール(1758~1794)
本文中でも書いたように恐怖政治を推進しましたが、議員時代には死刑廃止を提案したこともあります。
「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」という言葉は有名]


いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

9月に入りましたが、まだまだ暑いですね。

そんな厳しい残暑には、暑い、もとい熱い男たちの物語はいかがでしょう。


安達正勝『物語フランス革命』。



近代民主政治の端緒となったフランス革命はおそらく知らぬ人はいないくらい有名な革命でしょう。

そのフランス革命が1789年のバスティーユ襲撃で始まり、1799年のナポレオン・ボナパルトの戴冠で終焉を迎えるまでの軌跡が、コンパクトに分かりやすく綴られています。



鈴木宏子「薔薇は美しく散る」
[フランス革命と言えば、ベルサイユの薔薇ベルサイユの薔薇と言えば、この歌。今日の本を読んでいる間、私の頭の中にもこの歌がずっと流れてました(笑)]


この本の特徴として挙げられるのが革命を、それに関わった人物を切り口に叙述していることでしょう。

ルイ16世や名だたる革命家たちの行動や思想、果てはパーソナリティが活き活きと語られていて、著者の思い入れが透けて見えます。


その中でも私がもっとも惹かれたのが、ジャコバン派の2大指導者、マクシミリアン・ロベスピエールと、ジョルジュ・ダントンです。


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[ジョルジュ・ダントン(1759~1794)
堂々たる体躯と、雷鳴のような声の持ち主で、彼の演説を聴いて奮い立たない人はいなかったとも言われます。危機的な戦況の中で、ダントンの演説は兵と民衆を大いに励ましました。]


ジャコバン派と言えば、フランス革命の代名詞のような党派で、国内で反乱が続出し、革命の波及を恐れた外国との戦争では劣勢に追い込まれる中、反対する人々を次々に処刑し、恐怖政治を施いたことで知られています。

ロベスピエールは恐怖政治を推進したまさに張本人で、対するダントンはそれよりは穏健な一派を率いていました(「寛容派」とも呼ばれています)。


ロベスピエールは、なかなかの美男子、女性にも結構もてたらしいですが、生涯独身、一説には女性との関係自体を持たなかったとも言われています。

そして、最高権力者になった後も小さな下宿に住み続けるなど、要は超ストイックな人でした。


片やダントンは、醜男、妻のことは情熱的に愛していましたが(自身が出張中に急死した妻の遺骸を掘り返し、それを元に胸像を作らせた!)、何度か浮気もしていたそうです。

おまけに対立する党派から賄賂を受け取っていたという説もあり、美食を好むなど、かなり享楽的な人物でした。


まさに正反対の二人ですが、この二人が革命家として両方人気があるのだから、おもしろい。


私は良くも悪くも人間臭いダントンに惹かれますが、ロベスピエールも結構好きだったりします。

ダントンは友達になりたいですが、ロベスピエールは尊敬はしても、あんまり友達になりたくないです(笑)。


さて、恐怖政治を行ったことで評価の分かれるロベスピエールですが、冷静に考えると同情の余地が結構あると思います。

国内は反対派の反乱で内戦状態。

そんな状態で四方八方から押し寄せる外国軍。

しかも、敵が装備も充実し、百戦錬磨なのに対し、フランス軍は装備も有り合わせ、兵士も指揮官もにわか仕立て。

勝っているのはやる気だけ、というような状態でした。

まさに内憂外患のお手本のような有り様で、そんな時に国を率いる身となってしまっては、ロベスピエールならずとも、ギロチン台に訴えても独裁政治をするしかないじゃないか、と思うかもしれません(それでも恐怖政治を肯定する気にはなれませんが)。


ロベスピエールは元々は正義感溢れる弁護士でした。

合法性を何より重んじる彼が恐怖政治を選択したのは、苦渋の決断だったのかもしれません。

せっかく芽生えた民主政治の芽を守るための。


恐怖政治に待っているのは、一つの陰惨な結末でしょう。

恐怖で人を押さえ込めば恨みを買い、恨みを押さえるために、さらなる恐怖が必要になる。

この悲惨な循環はいつか破綻する。


ダントンを処刑したロベスピエールですが、彼も遂に反対派のクーデターに遭い、失脚し、ギロチン台に立つことになります。

ロベスピエール亡き後、有力な指導者を欠いた革命政府は迷走。

やがてナポレオンの独裁に帰着します。

国王を殺した革命が皇帝を生んだのは、一つの皮肉ですが、ナポレオン帝政の下、民主政治の理念が制度的に確立して行くのでした。


フランス革命は、多くの犠牲を必要としました。

それ自体は実に痛ましい。

が、良し悪は別として、現代の民主主義はその犠牲の上にあるのもまた事実でしょう。

ならばせめて、民主主義によって与えられている自分の権利、義務、責任を大切にしたいものです。


今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

また、この記事をお気に召していただけましたら、シェアしていただけますと、大変嬉しく思います。

分かっちゃいるけどやめられない

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

ご無沙汰してます。

2週間ぶりの更新でございます。

先々週から司書講座のスクーリングに日曜を挟んで10日ばかりいってました。

それも更新が遅れた理由ではあるんですが、もう一つ別の理由があります。

今日はその別の理由について少しお話しようと思います。


今さら珍しいことでもないんですが、また人を好きになりました。

もちろん、どういう人かはここに書けませんが、優しそうで、おっとりしてて、真面目そうな、私にとってはド直球な女性でした。

知り合ってから恋するまで、その間1週間足らず!

ぶっちぎりの新記録で、よっぽど惹かれるものがあったのでしょう。


それで連絡先を交換して、lineをしてて少しでもお近づきになろうと、おすすめの映画を彼女に訊いてみました。

それが偶然にも私の好きな映画と一致し、すっかり舞い上がった私は、LINEでつい前のめりになってしまいました。

その結果、返信が来ず、後で不味かったと思い直して送ったお詫びのLINEにも返信が来ませんでした。

この一件ですっかり落ち込んでしまい、ブログを書く意欲を失っていたわけでして。


LINEの返信が来なかった来なかったことよりも、私のしたことが彼女の重荷になったり、ひょっとして傷つけたりしたのなら、そっちの方が辛い。


ところで私の好きな歌に植木等さんの「スーダラ節」があります。

好きな理由は共感できるからなんですが、特に3番の歌詞なんて、私そのものだとさえ思えてきます(笑)




植木等 「スーダラ節」



何度も恋をして、その度に色々な原因で失恋してます。

生き方そのものが不器用な私ですが、こと恋愛に関しては磨きがかかってると言っていい。


結果として、自分が傷ついたり、だれかを傷つけるかもと分かっていても恋したり愛さずにはいられない。

困ったことに“分かっちゃいるけどやめられねぇ”ってものでした。


きっと、今の恋も涙に終わるでしょうし、ひょっとすると、まただれかを傷つけたのかもしれません。

だからせめて、傷つけた分だけ、だれかに優しくしたいと思うのです。

なんか、まとまりないですけど、今日は止めどない思いをとにかく書きたかったんだと思います。


今日はこんなところです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

めぐるめぐるよ、輪廻はめぐるー映画「クラウド・アトラス」

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

どうも、お久しぶりです。

えー、今回更新の間が空きました理由はと言いますと、単にお盆休みで曜日の感覚が狂い、更新を忘れていました(笑)

まことに失礼いたしました。


さて、今回は必ずしもハッピーエンドでないのに見終わった後になぜか元気が出る、そんな映画のお話です。


クラウド・アトラス

監督は「マトリックス」で有名なウォシャウスキー姉弟(現在は姉妹)。

主演はトム・ハンクスハル・ベリーです。



この映画は六つの短編によるオムニバス形式になっていて、それらがシャッフルされて複雑に場面転換することで話が進みます。

さらにおもしろいのは、19世紀から文明が崩壊した遥か未来まで、長大な時間軸が描かれているんですが、後の時代に出てきた人物が、前の時代の人物の生まれ変わりと設定されていること。

つまりは「輪廻転生」を一つのテーマにしているんですが、それを演出するために同じ人物の生まれ変わりは、同じキャストが演じています。

ゆえに特殊メイクで人種や性別も越えた変身をしているキャストを見破るのも見所の一つです(私は全く分かりませんでしたが(笑))。


クラウド・アトラス 上

クラウド・アトラス 上

クラウド・アトラス 下

クラウド・アトラス 下

[原作本です]


さて、時代を越えた六つの物語と言いましたが、それらを簡単に紹介したいと思います。

19世紀、南大平洋。主人公は青年弁護士。奴隷商人の岳父の手伝いをするために船に乗り込むが、その船で密航していた逃亡奴隷の青年を匿うことになる。

1936年、ロンドン。主人公の貧乏作曲家の青年は、落ち目の老作曲家に助手として雇われる。やがて二人は稀代の傑作を生み出すが・・・

1973年、サンフランシスコ。二流雑誌の女性記者が最新鋭の原発を取材する。しかし、原発政策を頓挫させたい石油会社の陰謀に巻き込まれる。

2012年、スコットランド。兄に騙されて悪徳老人ホームに軟禁されることになった老編集者。彼が仲間と協力して脱走を企てる作品。この映画で例外的にコミカルな作風。

2144年、ネオ・ソウル。人口が激減した未来社会では、代替労働力としてクローン人間が活用されていた。クローンはいずれ殺処分されることを知った女性クローンが、クローン解放のために戦う話。

文明崩壊後、ハワイ。とある部族の男がより進んだ文明を持つ部族の女性から、聖地の山への案内を頼まれる。そこには人類を救うある秘密があった。



『クラウド アトラス』特別映像


それぞれが独立した一本の映画になりそうな濃いストーリーですが、私は特に⑤の話が好きです(ちなみに言うと、②、⑤がバッドエンドです)。


大学卒業間近にこの映画を見たんですが、当時私はどうしても就きたい仕事があって、敢えて就職浪人の道を選んでいました。

自分の信じた道を行くんだという決意(気負い?)と、人と違う道を行く不安が半ばした心境でした。

そんな自分と、敢えて勝ち目の薄い戦いに挑む主人公のソンミ(ペ・ドゥナ)とを重ねていたのかもしれません。



Cloud Atlas - Sextet (extended version)
[この映画のメインテーマ。②の主人公の青年が作曲したという設定です]


それぞれはバラバラの話なんですが、段々と一つの大きな物語になっていく。

切ない結末の話もあるんですが、見終わったあとに、なぜか「明日もがんばろう」、そんな気持ちにさせられる。

そんな不思議な映画です。


今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。


ちなみに私、明日から来週の土曜まで、司書講座のスクーリングに通います。

その関係でまた更新の間が空きますが、気長にお待ちいただけますと、幸いです。

ゴジラがマジで恐かった―映画「シン・ゴジラ」

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。



『シン・ゴジラ』予告2


さて、先日、ゴジラシリーズの10年ぶりの新作「シン・ゴジラ」が公開されました。

特撮を見ながら育ち、特にゴジラモスラの活躍を食い入るように見ていた子どもだった(大人になってもそうですが(笑))私としては、「これは見ねばならん!」と勇躍映画館に乗り込みました。

そして、実に喜ばしいことにその期待は裏切られることがありませんでした。


[記念すべき第1作。シリーズで唯一、ゴジラを完全に葬り去った「オキシジェン・デストロイヤー」が出てきます。そして、それを発明し、自らの命と引き換えにオキシジェン・デストロイヤーと、ゴジラを葬り去った芹沢博士が実に格好いい。

「さようなら。幸せに暮らせよ」]



ゴジラは60年の歴史の中で「シリーズ中断→リブート」の流れを2回くり返しています。

2回のリブート作はいずれも、第1作目の「ゴジラ」(以下、「元祖」)と同じ時系列に位置しています。

その作品の中の日本は、いずれもゴジラの襲来を1度は経験したわけで、つまりは“架空の日本”と言えるでしょう。


これに対し、「シン・ゴジラ」ではゴジラを全く知らない日本に、ゴジラが襲いかかってくる。

感覚としては、「元祖」に引き戻されたと言えるわけです。

ゴジラは、シリーズを重ねるごとに「ヒーローもの」化していくんですが、それが信じられないくらい、「元祖」ではゴジラが徹底的に恐怖の対象として描かれています。


シン・ゴジラ」はそれを彷彿とさせる出来でした。

得体の知れない巨大生物が我が物顔で街を蹂躙し、自衛隊と米軍が束になっても全く敵わず、放射熱線の一吐きで東京都心が壊滅し、放射能に汚染される・・・

生まれて初めてゴジラを本気で恐いと思いました(マジで)。


ゴジラ(昭和59年度作品) トールケース版 [DVD]

ゴジラ(昭和59年度作品) トールケース版 [DVD]

[リブート1回目の「ゴジラ」。武田鉄矢が火事場泥棒の役で出ていたのが妙に印象に残ります(笑)]


また、「シン・ゴジラ」ではゴジラの対応に追われる日本政府の動きがリアルに描写されます。

ゴジラが出て、自衛隊を出動させるしかなくなるんですが、その法的な裏付けをつくるために官僚が議論し、政治家たちは会議を重ねる。

たぶん、ゴジラが本当に出たら同じ様なことが起こるでしょう。

首都が破壊されている傍らでこれをやるわけですから、イライラしながら見てました(かと言って、法的な根拠なく動く政府や軍隊はゴジラより恐いですが)。


[リブート2回目のゴジラ。けど、1回した見たことなくて、筋もまともに覚えてない・・・。
今度見直そう!]


さて、「シン・ゴジラ」に主役らしい主役はいないと、私は思っています。

一応、ゴジラ対策チームを率いる官房副長官(綾野剛)が主役には違いないんですが、彼が際立った活躍をするわけではない。


これが例えばアメリカ映画なら、綾野剛が途中で死亡する総理大臣(大杉漣)に代わって政府の指揮を執って、ゴジラを撃退するところかもしれませんが、そうはならない。

彼は終始、日本政府という巨大な機構の枠をはみ出しません。

そしてそれは、他の登場人物も変わらない。

それぞれに見せ場はあるんですが、与えられた地位や立場の矩を越えることが決してありません。

そのあたりがなんとも“日本らしい”。


この映画、割りと評判がいいようなんですが、その辺りの描写が多くの日本人の感性に訴求したのかもしれません。


良くも悪くも「和を以て尊しとなす」のが、いまだに日本人の美意識として生きているんでしょうか。

いずれにせよ、そんな人たちが右往左往しながらも最善の方法にたどり着く様は、一見頼りなくて、実は頼もしい。

まさかゴジラは出ないでしょうが、ぜひ現実もそうあって欲しいと思います。



ゴジラのテーマ
[日本人なら1度は耳にしたことがあるであろう「ゴジラのテーマ」。この曲と「モスラの唄」を聴くと今でもテンションが上がります(笑)]


今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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「運命の人」の見つけ方―城山三郎『そうか、もう君はいないのか』

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
お久しぶりです。

先週の日曜に司書講座の定期試験がありまして、その勉強でブログを書くのに手が回りませんでした。


さて、突然ですが、皆さんは「運命の人」って、信じますか?

今日は、一組の素敵な夫婦の話から、「運命の人」というものについて、一つ私なりに考えてみようと思います。


そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

[この本に書かれている城山夫妻のエピソードで私がいちばん好きなのが次の話。ある冬の夜、城山さんは悪戯で旧海軍の制服を着て帰宅します。出迎えた奥さんが驚いてドアを閉め、城山さんは寒空の下に危うく閉め出されそうになります。
中年になってもこんな風にふざけ合える夫婦って、素敵じゃないですか?]


城山三郎『そうか、もう君はいないのか』


作家の城山三郎さんが最愛の妻、容子さんとの出会いと結婚生活、そして別れまでの日々を綴った手記です。

そこで描かれている二人の夫婦生活がなんとも微笑ましくて、温かい。

まるで、恋愛中の青年のような率直な恋と、互いを労り合う老夫婦の愛とが仲良く同居しているようでした。

「恋はいつか愛に変わる」とだれかが言いましたが、それは真理の半分しか表現していないのかもしれません。

いずれにせよ、私の伴侶になってくれる女性が現れたとすれば、ぜひこんな夫婦になりたいと、しみじみ思いました(笑)

城山作品の主人公には愛妻家が多いんですが、それもご自分の結婚生活の反映だったのかもしれません。


城山夫妻の結婚生活には、末永く夫婦円満でいるためのヒントが隠されている気がします。

それはたぶん、互いを尊重して、程よい距離を保つということ。

城山さんは、若い頃に大学教員をしながら作家で身を立てることを志します。

ところが、同世代に大江健三郎開高健といった強力なライバルがいたりすることもあって、なかなか芽が出ない。

それでも容子さんは、「とりあえず食べていけるからいいや」とばかりにいっさい口出ししない。


なかなか胆の据わった奥さんですが、特に支障のない限り干渉しない應揚さが夫婦生活を長続きさせる秘訣かもしれません。


[もう結構昔なんですが、今日紹介した本がドラマ化されたことがあります。城山さんを田村正和さん、容子さんを富司純子さんが演じました。]


ところで、城山さんは容子さんとの出会いは、「運命の出会い」だったと言っています。

けれど、それは予め「運命」とやらが用意されていたわけではないでしょう。

むしろ、城山さんが容子さんを愛したからこそ、それが運命の出会いになったのでしょう(逆もまた然り)。


どんな仲のいいカップルも初めからベスト・カップルだったわけじゃない。

お互いの話に耳を傾けて、短所に寛容で、長所を見、そして何より互いを労り、尊敬し、愛する。

そう言うちょっとした努力が二人を互いの「運命の人」にしていくんじゃないでしょうか。


人がだれと出会うかは、選べるようで選べないし、合わない部分なんて、探せばいくらでもある。

そうであればこそ、どこにいるかも分からない、そもそもいる保証もない運命の人とやらを探すより、目の前にいる人を運命の人にしていく方が、よほど建設的でしょう
(もちろん、人間には一定数“どうしても好きになれない人”がいるもので、そんな人まで無理に好きになることもないでしょうが)。


そして、これは恋愛や結婚だけじゃなくて、仕事や他のあらゆる人間関係にも通じる気がします。


事情があって、ここでお話できないのが残念ですが、今日書いたようなことを実感させてくれる出来事が最近ありましたので、本の紹介を兼ねて、今日の記事を書きました。


今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。