半平のきまぐれ日記

ADHD(注意欠陥多動障害)の20代の図書館司書が本を読んで、映画を見て、あるいはその他諸々について思ったことを気まぐれに綴ります。(※本ブログはAmazonアソシエイトを利用しています。また、記事中の画像は、断りのない限りWikipediaからの引用、もしくはフリー素材を使用しています)

「コラテラル・ダメージ」は許容されるか?

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

早いものでもう11月。

今年もあとわずかでございます。

ブログの更新はゆっくりになって、更新頻度も月一くらいになるかもですが、読書や映画鑑賞は相変わらず続けていて、書きたいことが溜まってきています。

今年も最後まで「書きたいことを、書きたいように書く」ポリシーを守りつつやって行きたいと思いますので、一つよろしくお願いします。


さて、今日は先月見た映画の話をしようと思います。

「ハイドリヒを撃て! ナチの野獣暗殺作戦」



「ハイドリヒ」とは、第二次大戦中のナチス秘密警察の事実上のトップであり、連合国から「金髪の野獣」と呼ばれたラインハルト・ハイドリヒのことです。



ラインハルト・ハイドリヒ(1904〜1942)


ハイドリヒはチェコ副総督に在任中の1942年、イギリスとチェコ・スロヴァキア亡命政府によって送り込まれた刺客によって暗殺されますが、その暗殺計画=エンスポライド(類人猿)作戦の顛末を描いた映画です。


チェコ占領政策の事実上の最高責任者であったハイドリヒは、現地の労働者に対しては福祉政策の充実などを通して懐柔する一方、抵抗運動の主たる担い手であったインテリ層に対しては仮借のない弾圧を加え、抵抗運動を壊滅させました。

当時チェコはヨーロッパ有数の工業地帯であり、その統治が順調に行くことはドイツがその工業力を手にすることを意味しました。

ハイドリヒ暗殺の背景にはそれを恐れたイギリス政府の意思がありました。


さて、ハイドリヒ暗殺のために送り込まれた亡命チェコ人の若者たちは、現地の抵抗組織の協力を得て、ハイドリヒの暗殺に成功します。


ヒトラーの絞首人ハイドリヒ

ヒトラーの絞首人ハイドリヒ

ハイドリヒの伝記です。


しかし、その代償はあまりに大きなものでした。

自身の側近を殺されたことに激怒したヒトラーは、容赦ない報復に出ます。

無関係のチェコの市民たちが数多く処刑、あるいは投獄されたり、拷問によって殺されました。

あやふやな密告によって村民が皆殺しにされた村もあります。


張り巡らされた捜査網をかい潜り、絶望的な逃亡生活を続けながら、暗殺を実行した若者たちは自問します。

自分たちのしたことは正しかったのか?、と。

確かに、ハイドリヒは同胞を殺戮した憎むべき敵ではある。

しかし、それを倒すために大勢の罪のない人々を犠牲にすることは許されるのか?、と。


「やむを得ざる犠牲」を意味する「コラテラル・ダメージ」という言葉がありますが、この映画を見て、この言葉を思い出しました。

ハイドリヒはだれかによって殺されるべきだったかもしれないし、ナチスもだれかが倒さねばならなかったとは思います。

しかし、そのために無数の人命を犠牲にすることは正当化されるのでしょうか?

少なくとも、それを正当化する考えは危険だと、私は思います。


HHhH (プラハ、1942年)

HHhH (プラハ、1942年)

エンスポライド作戦を題材にした実録小説です。


では、どうするべきだったのか?

それこそ歴史の後知恵に過ぎませんが、ナチスは一介の小政党に過ぎない段階で、芽を摘まれるべきでした。


過ぎた歴史のことはもうどうしようもないけれど、今後ナチスのような危険な集団が歴史の表舞台に立たない保障はない。

だからこそ、それらが手がつけられなくなるほど巨大化する前にその芽を摘む。

そのために必要なのは、そんなに特別なことではないと思います。


耳障りのよい言葉、非の打ち所のない正論、そういったものには眉に唾つけて疑ってかかる。

わずかでも違和感を感じたら立ち止まってよく考える。

みんなが賛同しても自分が納得できなければ賛同しない。

そして、時には自分自身さえ疑ってみる。

そんな姿勢ではないでしょうか。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


※この映画はかなり重い話ですし、ショッキングなシーンもありますので、鑑賞の際はご注意ください。

自分の周りから、ちょっとずつ世界を変える

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前回からちょうど1ヶ月ぶりの更新になります。

この間、職場でちょっとしたプロジェクトに関わったりして、仕事に夢中になってました。

私の特性として、一つのことに没頭すると他のことを忘れてしまうところがあるので、ブログもお留守になっていたんですが、先日職場の人に勧められて見に行った映画があるので今日はその話をしようと思います。


「ドリーム」

アメリカの初期の宇宙開発に携わった実在の三人の黒人女性を描いた映画です。



1960年代初頭、NASAに計算係として勤務するキャサリン、ドロシー、メアリーの黒人女性三人組。

彼女たちの他にもNASAにはたくさんの黒人女性たちが勤務をしていましたが、そこには露骨な差別が存在しました。

白人の女性と同じ仕事をしても給与は低く、管理職にはなれず、黒人の女性は敷地内の外れにある部屋に集めて勤務させられる・・・果てはトイレやコーヒーポットに至るまでそこかしこに差別が存在します。

今から考えると信じられないような、はっきり言って「幼稚な」差別ですが、それを周りの白人の職員がだれ一人おかしいと思わないこと、そしてそんな時代に、私は言いようのない怒りを感じました。


やがてキャサリン有人宇宙飛行プロジェクトの検算係に抜擢、キャサリンは技術者を目指し、ドロシーはコンピュータのスペシャリストへとそれぞれの道を歩み始めますが、そこでもやはり人種の壁に直面します。


ドリーム NASAを支えた名もなき計算手たち (ハーパーBOOKS)

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映画の原案本です。


たとえばキャサリンは近くに「黒人用」の女性トイレがないために、用を足すためだけに八〇〇メートル先のトイレへの往復を強いられます(このトイレが劇中では人種差別の象徴として描かれていて、中盤でキャサリンの上司が「白人用」のトイレであることを示す看板を叩き壊すシーンは痛快ですらあります)。


大小様々な理不尽に逢いながらもしかし、彼女たちは挫けません。

腐ることなく、また諦めることなく、自分の力を活かして、自分の為すべき仕事をしていきます。

そのことが、やがて周りの人々を、職場を、そして世の中を静かに変えていきます。


この映画のクライマックスになっているのがアメリカ初の有人宇宙飛行計画「マーキュリー計画」。そこで使われた歴史的宇宙船をあなたの手に!


キャサリンたちは何も最初から世の中を変えたかったわけじゃない。

ただ肌の色ではなく、能力や人格で自らを評価して欲しいという、人間としてあまりに当然な権利のために戦った。

しかし、そのことが結果的に世の中を変えていった。

その事実に私はささやかな勇気をもらいました。


私自身、発達障害+脳性麻痺というハンディキャップがあります。

私はそれでもの凄く差別された覚えはないけれども、周りの人が簡単にできることが、私にはできないことも多かった。

これでも結構負けん気が強いので、内心悔しい思いをすることも多々ありました。

でも、だからこそ、自分にできることを探してきたつもりですし、これからもそうするつもりです。

キャサリンたちが、自分の能力を活かして人生を切り拓いたように。


実は私には夢があります。

それは例えば障害者が、「障害者」としてではなく、一人の人間として受け容れられる社会をつくることです。

それは大きすぎる夢かもしれません。

けど、私の仕事が大河の一滴になることを信じて、明日からも仕事をしようと思います。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

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祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を現す」というのは、おそらくたいていの方がご存知でしょう、平家物語の冒頭の一節です。

平家の栄華と没落、そして滅亡を描いた文学の導入としてはこれ以上ないと思えるほどの名文句ですが、歴史上衰亡と無縁であった国家や民族というものは存在しません。

あたかも人が老いや死から逃れられないように、国家も必ず衰退し、いつかは滅ぶ。

それ故、衰亡論には人を惹きつける魔力のようなものがある気がします。


さて、今日取り上げるのは高坂正堯『文明が衰亡するとき』です。


文明が衰亡するとき (新潮選書)

文明が衰亡するとき (新潮選書)


今は亡き国際政治学の泰斗がローマ、ヴェネツィア、アメリカという三つの国を題材に衰亡論について語った本書は、お堅い学術書というのではなく、筆者自身も述べているように「歴史散歩」と言った方がしっくりくる。

例えて言うならば、大講義の授業を聞いているのではなくて、先生の研究室でお茶でもよばれながら先生の気楽で知的なお喋りの聞き役になっているような感じです。

学生時代、私も講義を聴くよりそんな時間の方が好きでしたが。


ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) (新潮文庫)

ローマ帝国」と言えば、個人的にはこの本がまず浮かびます。私は大学1年の頃にこの本と同じ作者の『海の都の物語』を読んで、西洋史やイタリア史に興味を持つきっかけになりました。


さて、本書における筆者の主張を端的に述べるならば「大国はその巨大さと成功故に衰亡する」ということになると思います。

ローマ帝国は巨大化した帝国の維持と防衛のためにより複雑な官僚機構と巨大な軍隊を必要としました。

さらに民衆の支持を得るためのよく言えば福祉政策、悪く言えばバラマキ政策を行わねばならなかった。

さしもの巨大な帝国もその負担に耐えきれず、財政に破綻をきたした。

近年の研究ではローマ帝国の衰亡はもっと複雑な問題であったと言われていますが(そもそも何をもってローマ帝国の滅亡と言うのかすら明確でない)、こうしたことも衰退の一因には違いなかった。


海の都の物語〈1〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)

海の都の物語〈1〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)

「陸の大国」ローマに対して、「海の小国」ヴェネツィアを描いた歴史小説。清々しいまでに実利を追求し、強かに生きたヴェネツィア人の生き様は愉快ですらあります。ローマよりヴェネツィアが好き。


海洋都市国家であったヴェネツィアは東地中海の貿易を独占し、その富を背景に中世ヨーロッパ最強の海軍を持つことで人口十数万(最盛期)の小国でありながら、ヨーロッパの大国と互角に渡り合いました。

しかし、オスマン帝国に貿易拠点を奪われたこと、貿易の中心が大西洋に移ったこと、船舶の技術革新などの要因で没落。

18世紀の終わりに呆気なく滅亡します。

ヴェネツィアにしても例えば大西洋貿易に参入するチャンスもあったのにそれまでの成功体験に縛られたがために、結局海洋国家として生きることを断念せざるを得なくなったと、筆者は言います。

そして、海洋国家でなくなったヴェネツィアはもはや一小国に過ぎないのでした。


これって、日本の身にもつまされる話だと思います。

福祉関係予算の肥大化は頭痛の種で、大鉈を振るわなければ持続は危ういと思うんですが、国民の手前、遅々として進んでいません。

他にも正社員中心の雇用体系なんかは非正規労働者が全体の四割にもなった今、現実に即していないと思うんですが、こちらも高度成長期の成功体験もあってか、なかなか転換が進まない。


しかしながら、ただ変えてしまえばいいというわけでもない。

福祉政策は意地悪く見ればたしかにバラマキでもありますが、社会の安定のためにも必要ではある。

簡単に切るわけにもいかない。


雇用体系にしても単に正社員の首を切りやすくしたり、給与水準を下げてしまうだけでは社会全体の所得水準が下がるだけでしょう。

かと言って、給与を上げるだけでは雇用される人の数が減るかもしれない。

まことに頭の痛い問題です。


人が老いや死から逃れられないように、国家も結局のところ、衰退する運命にあるのでしょう。

しかし、どうせ死ぬのだからと自堕落に生きる人が明らかに健全でないように、衰退に任せるのも賢明な選択ではあり得ない。

それに国家は人間とは違い、改革という名の「若返り」ができる。

ならば若返りを繰り返して、何百年と健康に生き続けることだって可能だと思うのです。

そして、今の日本は民主主義国家。

国家を生かすも殺すも我々国民次第だと思うのです。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

あなたに恥ずかしくないように

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さて、図書館に就職してちょうど一ヶ月が経ちました。

体力的にも結構キツイですし、まだまだ分からないことだらけなんですが、好きな仕事を一生懸命やっています。


仕事中にもおもしろそうな本を見つけて、読みたい本が益々増えています。

仕事でから帰ると毎日クタクタですが、ブログのネタも尽きそうになく、少々困っているところです(笑)


さて私、また失恋しそうな予感です。

とある女性を好きになって、勇気を出して食事に誘ったんですが、断られちゃいました。

しかも、その理由というのが単に都合が合わないとかいうのではなくて、ちょっと厄介なのです(相手に恋人がいるとかいうのじゃないですよ。好きな人は知らないけど・・・)。



最近のお気に入り その①
「本当は見た目以上打たれ強い僕がいる」のところが胸に沁みます


振られたわけではないんですが、実質的にそれに近いような。

かなり惚れ込んでいただけに、結構ダメージを食らいました(笑)

諦めて次に行くのが賢明とも思うんですが、やっぱりあの人のことがまだ好きで。

諦めるか、まだがんばるか、自分でも決めかねています。


あの人の前にいると素直でいられる気もするんですが、緊張してうまく話せないこともあって。

もっとあの人の話に耳を傾けたいんですけど、つい話しすぎて後で後悔したりして。

シャイで表面的にはあんまり自分に自信がないようにも見えるけど、実は芯が強くて。

私がうっかりドジをしても、クスッと笑ってくれるあの人がやっぱり好きで、あの人を支えたい。



最近のお気に入り その②
「終わりにした方がいいって頭で分かっても心が言うことをきかなくて」がまさに私の心境です(笑)
私の好きなあの人も木村多江みたいにかわいくて優しそうです


だから諦めて次に行った方がいいと思っているんですけど、やっぱり諦めたくない。

迷惑で単なる自己満足かもしれないけど、いつかこの思いを伝えたいと、少なくとも今の自分は思っています。


さて、けれども今すぐにどうこうなるというわけではないので、当面は現状維持ということになるでしょう。

いつかチャンスが来るのを待つとしても、それまでどう過ごすか、それが問題です。



最近のお気に入り その③
初恋の相手に声もかけられなかった男が、昔を思い出して相手の幸せを願う歌ですが、他人事とは思えない(笑)


私は好きな仕事に打ち込みたい。

仕事だけでなくて、毎日一生懸命に生きたいと思います。


「自分磨き」というのではなくて、いつかあの人が振り向いてくれた時に、いや、たとえ振り向いてくれなくても恥ずかしくない自分でいたい。

終わったことにいつまでもウジウジしてる自分より、格好悪くて颯爽としてなくても、自分のすべきことを一生懸命してる自分を見てもらいたい。

だから明日からもドジで間抜けでも一生懸命生きていきます。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

不器用に咲く君の花がいい

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

「半平のきまぐれ日記」史上初(たぶん。何か前にもやった気がしてきた(笑))一日ニ回更新でございます。

明日が初出勤で気持ちが昂ぶっているのと、図書館で働き出したら、しばらくブログを書く余裕がなくなる予感がするので今書きます。

テーマですが、私の就職に伴い、今までお世話になった就労移行支援事業所は退所しましたが、その修了式での私のスピーチで言ったことを書きたいと思います。



修了式では職員さんと利用者が一人ひとり私にお祝いのコメントを言ってくれますが、その中でいくつか聞かれたのが「初めの頃は静かで近寄り難かった」ということ。

今は全然違いますが。

おそらく、何度も挫折を繰り返すうちに、知らず知らずのうちに鎧を着ていたのかもしれません。


けれど、鎧を着たままでは動きにくいし、しんどいし、事業所に通ったり、色んな経験を繰り返す中で段々鎧を着るのがバカらしくなってきました。

今では褌一丁で、逆に着物くらい着ないと風邪をひくかもしれません。

何にせよ、今の自分の方が好きですからいいんですが。

私をこんな風に変えてくれた全てのものに感謝します。


さて、今日のタイトルは私の好きなさだまさしさんの「不器用な花」という歌の一節から取りました。

一生懸命がんばってるんだけど、なかなか芽が出ない。

それでも不器用に咲こうとする人たちを応援する、そんな歌です。



うん、めっちゃ自分のこと重ねてますね(笑)

私も色々不器用な人間ですから「不器用に咲く君の花がいい」なんて言われたら泣きそうになります(笑)


私は人間とは「考える花」であり、「動く花」だと思っています。

人はみんな、それぞれに花の種を持っている。

人はそれを咲かせないといけない。


自然界の花と同じように、一見すると綺麗でない花もあるかもしれない。

けれど、そんな花は凄い力を秘めているのかもしれない。

何よりも、そこに咲いているからには何か理由があるはずだし、力の限り咲く花はただそれだけで美しい。


仏教ではこの世界、あるいはそこに生きる全てのものをひっくるめて「三千大世界」と呼び、自他の境界を無くして、自分を三千大世界と一体化させることを目指します。

私はそれを人の幸福を願い、喜び、人の不幸を悲しむことだと思っています。

そして、一生懸命に生きる互いを労わりあうことだと。


効率的で生産的なものだけを良しとし、そうでないものを切り捨てる。

そんな考え方を極端に推し進めていけば、(相対的な非効率が絶対に無くならない以上)後に残るのはただ不毛な世界だけでしょう。

そんな世界では結局、だれも幸せになれない。

相模原の障害者殺傷事件の犯人は、この種の考え方の持ち主なんだろうと思います。


そうではなくて、だれもが尊重される世界の方が、よほど豊かで幸せになりやすい。

どうせ暮らすならそんな社会の方がいい。


私の力は所詮微々たるものかもしれない。

しかし、自らが発達障害を持ち、社会の情報拠点である図書館で働く以上、そんな社会の実現に少しでも貢献したいと思っています。


まずは私が通っていた事業所の所長さんを、いつか図書館のイベントで講師に呼びたいと密かに思っています。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

明日から仕事がんばります。

たとえ人生に何も期待しなくとも・・・

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

図書館への初出勤を明日に控え、少しばかり緊張している半平です。


突然ですがあなたの家が火事になり、家族やペットは全て逃げ出し、預金通帳などの財産も持ち出せたとして、あともう一つだけ何かを持って逃げられるとしたら、あなたは何を持ち出しますか?

私の場合、それは一冊の本です。

今日はその本の話をしましょう。
 

「あなたはなぜ生きるか?」

このシンプルな問いに答えられる人は果たして何人いるでしょうか?

このブログでは何度か似たようなテーマを取り上げていますが、それでも真正面から問われるときっとたじろいでしまうでしょう。


この問いを考える時、私は今日取り上げる本を思い出します。
 
それは精神科医ヴィクトール・フランクルが書いた『夜と霧』という本です。

ユダヤオーストリア人である彼は、第二次世界大戦ナチス・ドイツの手によって強制収容所に入れられました。

そして、ともに収容された両親と妻を失っています。

その収容所での体験を綴った手記が『夜と霧』です。


夜と霧 新版

夜と霧 新版


この手記で貫かれているテーマ。

それは「いかなる時にも人生には生きる意味がある」ということです。

そしてその意味は、だれかから与えられるものでも、あらかじめ用意されているものでもなく、自分で見つけ、つくりださなければならないということです。

さらに言うならば、人は常に生きる意味を問われている。
 

フランクルは語ります。

収容所では生きる意味を見失った者から死んでいったと。

強制労働の合間に見た夕焼け、収容者仲間と本や音楽の話をすること、それら一つひとつが生きる意味になりました。

ある収容者は生きて子どもと再会することを、別の収容者は自分の研究テーマについての本を書くことを生きる意味にします。

フランクル自身も、生死も定かでない妻を心の中で思い、彼女への愛を感じることを生きる支えにします。



ヴィクトール・フランクル(1905〜1997)

被治療者が自らの「生きる意味」を探し出すのを援助することで治癒を目指す「ロゴセラピー」の考案者。収容所に入れられた時点でその理論は完成しており、収容体験がその正しさを裏付けることになった。
極限状況を経験しながらも終生、快活でユーモアに富み、多くの人に慕われたという。生還後に再婚。学会なとで何度か来日もしている。
代表作は『夜と霧』の他に『それでも人生にイエスと言う』、『意味への意志』など。

 

私がこの本に出会った時、私は前職で毎日のように失敗をし、そのせいで職場で孤立し、仕事に行くのが心底苦痛だった時期でした。

どれだけ努力しても報われない日々に何の意味も感じていませんでした。

この本を通勤電車の中で読みまして、涙をこらえたのを覚えています。

こらえきれずに涙ぐんだんですけど(笑)
 

たとえ私が人生に何も期待しなくなったとしても、人生は私に期待している。

そう思えただけで、不思議と元気と勇気が湧いてきました。

今私がここにいるのは、この本のおかげかもしれません。
 
 
私のように向き不向きの激しい人間は、向いていない仕事に就くべきではない。

図書館の仕事はたぶん向いているので、今までよりはるかに活き活きと働けるでしょう。

何よりやっていて楽しいですし。


それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う

意味への意志

意味への意志


けれど、そんな仕事であっても悩むこともあるし、失敗することもきっとある。

けれど今回は、それを乗り越えることを楽しめる気がします。
 

ここで冒頭の問いに戻りますが、私の生きる意味は、愛することに見出したい。

仕事や人や自分をどんな時も愛すること。欠点や嫌いな点も含めて愛すること。

たとえ報われなかったとしても愛し、愛したことを後悔しないこと。
 

そして「まだまだこの世にいたいなあ」と思いながら最期の時を迎えたいものです。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
 

たとえ、世界が狂気に満ちていても

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

少し前の話になりますが、先日「ハクソーリッジ」という映画を見に行きましたので、今日はその話をしようと思います。


第二次世界大戦末期の沖縄戦でアメリカ軍の衛生兵として従軍した実在の人物、デズモンド・ドスを描いた映画です。

この人物が歴史に名を残したのは、衛生兵とはいえ、一切武器を持たずに戦場に立ち、70人を超える兵士の命を救ったからでした。



母に暴力を振るう父を殺しかけて以来、「決して人を傷つけず、殺さない」と誓ったデズモンド。

戦争が始まっても徴兵を忌避していましたが、周りの若者が次々と戦地に行くのを見て、衛生兵としての従軍を決意します。


訓練が始まっても決して銃を手に取ろうとしないデズモンドは、仲間たちから疎まれ、軍法会議にかけられます。

しかし、家族や恋人の尽力で遂に特例で武器を持たぬ衛生兵としての従軍を許可されます。

彼が配属されたのは、沖縄戦線。

デズモンドの部隊の前に立ち塞がったのは、「ハクソーリッジ」と呼ばれる切り立った断崖と、そこで待ち構える日本軍でした。



映画でデズモンドを演じたアンドリュー・ガーフィールド


とにかくこの映画、戦場の描写が実に生々しい。

凄惨と言ってもいい。

少なくともこの映画を見て、軍隊に入りたいと思う人は、あまりいないでしょう。

ホラー映画など足元にも及ばない。

生きている人間こそが、もっとも恐ろしいと思い知らされるでしょう。


ハクソー・リッジ (オリジナル・サウンドトラック)

ハクソー・リッジ (オリジナル・サウンドトラック)


さて、この映画を見るたいていの人は思うのではないでしょうか。

「そんなに人を殺したくないなら、戦争など行かなければいいのに」と。

実際にデズモンドも劇中で何度となくその様に言われますし、私もそう思いました。


「絶対に傷つけず、絶対に殺さない」という彼の信条は、戦時下では異端でしかない。

軍隊ではまさに狂人扱いです。

デズモンドはただ、人間として当然の倫理を実践しているだけなのに、です。



そのことに気づいた時、私ははっとしました。

戦時下における倫理の逆転にです。

人を殺すという最悪の行為が、相手が敵国の人間であるという、それだけの理由で許されてしまう、その不条理さに観客はいつか気づく。

狂っているのはデズモンドではなく、彼を狂っているように見なす時代であり、社会なのだと。

それこそがこの映画の肝だと思います。


それに気づいた時、デズモンドの行動の意味が分かる。

殺したくないけれど、自分だけ安全地帯にいることを、彼は自分に許さなかった。

だからこそ、衛生兵として従軍しようとした。

周りが、あるいは時代がどうあれ、自分の信じる倫理を実践しようとした。


部隊からはぐれて取り残されたデズモンドが、たった一人で負傷兵の救護にあたるシーンがこの映画のクライマックスです。

人が当たり前のように死に、だれもそれを疑問に思わない中で、「あと一人」と神に祈りながら敵味方問わず負傷兵を助けようとするデズモンドの姿は、何か人間が決して失ってはならないものを象徴している気がします。


戦争に至るまでの過程は必ずしも善悪で割り切れるものではありません。

しかし、戦争それ自体は絶対悪であると、私は思う。


この映画が描いているのは、(たとえ人は殺していなくとも)デズモンドのような人さえ、戦場に立たせてしまう戦争の理不尽さ。

そして、どんなに世界が狂気に満ちていたとしても、自分なりの良心に従って生きることが人間の強さであると思うのです。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。