半平のきまぐれ日記

ADHD(注意欠陥多動障害)の20代の図書館司書が本を読んで、映画を見て、あるいはその他諸々について思ったことを気まぐれに綴ります。(※本ブログはAmazonアソシエイトを利用しています。また、記事中の画像は、断りのない限りWikipediaからの引用、もしくはフリー素材を使用しています)

半平流十戒

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

GWも終わり、季節はもう夏の気配ですね。

私は最近、急に寝苦しくなったので毎晩眠りが浅くて難儀しているところです。

春眠暁を覚えずの季節が懐かしい・・・


元号は令和に変わりましたが、当ブログは相も変わらず気まぐれにやっていきますので、よろしくお願いします。


さて、最近私はモーゼが授かった十戒になぞらえて、「半平流十戒」というのをつくりましたので、今日はその話をしたいと思います。



モーセ十戒(レンブラント作)

  1. 無理しない
  2. がんばらない
  3. 格好つけない
  4. 煩わない
  5. 争わない
  6. 後悔しない
  7. 比べない
  8. 期待しない
  9. 欲張らない
  10. とらわれない

というのが、半平流の十戒ですが、これから逐条解説していきたいと思います。

1.無理しない

無理をして走ってバタンと倒れては元も子もないし、だいいち無理は続かないということです。

人生といういつ終わるともしれぬマラソンでは、速く走るより長く走り続けることが大事だと思うのです。



そういやこの話、前にもしたことあるな・・・と思ったら同じような話をずっと前に書いてました。よければそちらもお読みください。

2.がんばらない

「がんばってがんばる」のをやめようということ。

疲れたら休めばいいし、眠ければ眠ればいい。

明日でいいことは明日にすればいいし、私がやらなくてもいいことは、だれかにやってもらいましょう。

それよりもよく眠り、ゆっくりお風呂に浸かり、ボーっとしたり、自分自身や大切な人と語らおう。

3.格好つけない

どれだけ格好つけようと、強がろうと弱みは消えはしない。

ならば素直に弱みを見せて、人に助けを求めた方が楽に生きられるということ。

笑顔で差し伸べられた手を取り、笑顔でだれかに手を差し伸べよう。



この条を書いて思い浮かんだのがこの歌。めっちゃいいです

4.煩わない

悩みはそれ自体が存在するのではなく、色んなことを思い煩うから悩みとなる。

悩みの種の原因の大半は、「悩んでも仕方ないもの」、「悩む必要もないもの」、「現実になるかわからないもの」であると思います。

であるならば、可能な限り受け流せばいい。

5.争わない

他人と意見が食い違うことはままあることですが、その時に「小異を捨てて大同に就く」ということです。

何が何でも我を通さなければならない場面は人生にそう多くない。

小さなことで争うより、ニコニコしながら相手に譲る方が長い目で見て得るものが多いと思うのです。

6.後悔しない

言わずもがな、終わったことを気に病んでも得るものはない。

反省は必要ですが、それも過ぎれば毒となる。

どんなにいい結果に終わったことも反省点は探せばいくらでもあるのですから。

7.比べない

私にできて、あなたにできないことがある、逆もまた然り。

能力も性格も人生のペースも全くちがうのが人間というもの。

他人を横目にして焦るより、自分の人生を悠々と歩こう。

これまた同じような話を最近書きましたね。

8.期待しない

どれほど努力しようと、それが報われるとは限らない。

勝てるはずの勝負に負けることもある。

報われないと腹を立てて、自分やだれかを責めてしまう。

それよりも今できることをやろう。

9.欲ばらない

人の欲には際限がないもので、お金にせよ、物にせよ、地位や名誉にせよ、少し手に入るともっと欲しくなる。

人間に欲は必要だと思いますが、欲のために人生があるのではない。

自分には"何が"、"どれだけ"必要か自分に問いかけよう。

10.とらわれない

世間の常識や道徳、自分や他人の考え、あらゆる価値観や思想を相対化して、一つのものにこだわらないということ。

もちろん、この十戒にも。


いかがでしたでしょうか?

唐代の高僧、臨済禅師は「無事是貴人」という言葉を遺しています。

それは求めず、飾らず、ただあるがままの姿で生きる、そのような生き方こそ貴いのだというような意味ですが、この十戒をつくったとき、この言葉を思い出しました。

私は愚かな人間なので、自分で決めたことさえもなかなか守れませんが、自分なりに「無事の人」になっていこうと思います。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

何が差別を生むか

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四月に入ってからも冬のように寒かったのが、急に春めいてきて、桜の開花も一気に進んだようですね。

最近、近場の有名な花見スポットと、近所の桜をたまたま立て続けに見ることがあったのですが、どちらも桜は桜、変わらずに美しいと感じました。


さて、今年度のアカデミー作品賞は「グリーンブック」という映画が取りましたが、先日見てきました。

舞台は一九六二年のアメリカ、クラブの用心棒をしていたイタリア系アメリカ人のトニー・バレロンガ(通称"トニー・リップ" ビゴ・モーテンセン)は、ひょんなことから著名な黒人ピアニスト、ドナルド・シャーリー(通称"Dr.シャーリー" マーハシャラ・アリ)の演奏旅行の運転手の仕事を引き受けます。

演奏旅行の旅程には人種差別の激しい南部も含まれていたため、トニーはシャーリーの護衛役でもありました。

二人は黒人向けの南部旅行ガイド"グリーンブック"を片手に南部を旅するのでした。



しかしトニーは、当時の白人の平均程度には黒人に対する差別意識を持っていました。

一方でシャーリーも白人社会の中で一定程度認められていたからこそ生ずる一種の白人に対する壁のようなものがありました。

おまけに複数の博士号を持つほど教養高いシャーリーと、腕っ節は強いが無教養なトニーは、水と油のようなもので出発当初から二人はギクシャクしてぶつかり合います。


そんな二人が色々な出来事を共に乗り越えるうちに、友情を育んでいく実話を元にした映画なんですが、差別を題材にしながらもシリアス一辺倒ではありません。

シリアスとコミカルが交互に描かれていて、ちょっとしたシーンやセリフの中に深い意味があって、オスカーを取ったのもむべなるかなと思える良作でした。



二人で一緒にフライドチキンを食べる、私がいちばん好きなシーンです


さて、初めはいがみ合っていた二人ですが、シャーリーは一見下品で粗野なトニーに次第に誠実さと人の本質を見抜く目があることに気づきます。

また、トニーも気位が高い堅物と思っていたシャーリーの中にある音楽への情熱や苦悩、シャーリーが自発的に南部に来たことを知ります。


"黒人"や"白人"、あるいは社会的階層の違いといった没個性的な記号として互いを見るのではなく、一人の人間としての色々な面を知ることで、二人の間に友情が芽生えます。


映画は実際の二人が終生変わらぬ友情を持ち続けたことが語られて幕を閉じますが、何か差別というものについて考えさせられる話だと思います。

私が思うに差別とは例えば憎悪ではなく、むしろ無知から生まれるのではないでしょうか。


差別には複雑な背景や要因があるのでしょうし、程度も様々でしょうから、一概に言うのは乱暴かもしれませんが、あの当時、黒人を差別していた白人の人々がことさら悪人だったとは私は思いません。

大多数はどこにでもいるような、ごくありきたりな人たちで、例えば"みんながそうしているから"とか、"昔からそうだった"とかいう理由だけで、自覚もなく"差別"をしていただけのように思えるのです。

黒人の中にも色々な人がいることを知りもせず、それを想像しようとさえせず、ただのレッテルとしてしか彼らを見ない、そんな態度が差別を生んだのではないでしょうか。



Dr.シャーリーがテレビ出演した時の実際の映像


そしてそれは、異国の過ぎ去った過去の話ではなく、我々にも当てはまるのではないでしょうか。

例えばあなたの身の回りにどうしても好きになれないとか、苦手な人、もっと言えば嫌いな人はいませんか?

もちろん、私にもいます。

あなたがその人を嫌うのは相応の理由があるかもしれないし、その感情を否定することはだれにもできませんが、少なくともあなたに見えていることが、その人の全てでないことを想像する程度の謙虚さは必要ではないでしょうか?


人である以上、他者に好悪の感情を持つことは仕方ないと思います。

けれど、それだけで人を見ること、またその感情を善悪といった価値判断と結びつけること、それは慎むようにしようと、私は思っています。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

それでも、なお・・・

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前回の更新から一ヶ月以上間が空いてしまいましたが、この間また新しいことに挑戦し、そしてまた挫折しました。

去年から数えて一年以上走り続けてきた疲れと脱力感で何もする気が起きず、ブログも書けずにいたのでした。

人生なんて思い通りに行かないのが当たり前と、頭で分かっていてもこう短期間に何度も挫折すると、やっぱり凹みます。

自分の努力が報われることなんて、この先ずっとないんじゃないかなんて、ロクでもないことを考えたり・・・。

本当はとても辛いのに人前ではつい明るく振る舞ってしまい、そのせいで孤独感を深めたりと、ドツボにはまっているところです。

そこから抜け出すきっかけ探しも兼ねて、今は仕事中以外は好きな読書ばかりしています。


久しく読んでいない本や積ん読状態の本を中心に読んでいますが、その中の一冊にケント・M・キース『それでもなお、人を愛しなさい』というのがありました。

これは著者が学生時代に考えたという「逆説の十ヶ条」について書かれた本ですが、その十ヶ条は何十年の時を経て、マザー・テレサの目に触れ、インターネットを介して世界中に流布しました。

ご存知の方もおられるかもしれません。

1.人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しなさい。

2.何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

3.成功すれば、うその友達と本物の敵を得ることになる。それでもなお、成功しなさい。

4.今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

5.正直で素直なあり方はあなたを無防備にするだろう。それでもなお、正直で素直なあなたでいなさい。

6.最大の考えをもった最も大きな男女は、最小の心をもった最も小さな男女によって打ち落とされるかもしれない。それでもなお、大きな考えをもちなさい。

7.人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていかない。それでもなお、弱者のために戦いなさい。

8.何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築きあげなさい。

9.人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。

10.世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。それでもなお、最善を尽くしなさい。



先ほども書いたように人生は思い通りに行かないことの方が多い。

努力や善行は報われないし、思いは分かってもらえないし、誤解されたりすることもある。

けれどもそれは、努力をしないこと、自分の人生や他者に対して最善を尽くさない理由にはならないと思うのです。

「足るを知る」ことや自分にできないことを見極めことは必要だと思いますが、自分がすべきと思うことがあるのなら、それを諦めてはいけないと思うのです。


キング牧師ではありませんが、私には夢があります。

「どんな人も一人の人間として尊重され、その人格と能力によって評価される社会をつくる」という夢が。

それは私が発達障害の診断を受けて、就労移行支援事業所の助けを受けて就職したという経験から生まれた夢でもありますが、どんな形であれその夢を実現させたいのです。

自分ひとりの平穏を願うのではなく、世界のために少しでも価値あることをしたい。

そんな私にとっては実に勇気付けられる、価値ある言葉です。


今は志ばかりが高くて、その頂に登るための端緒を見つけられずにいるようなものですが、自分がその志を捨てずに行動することを忘れずにいれば、いつか実現すると信じています。


けれどもその前に、明日自分ができることを。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

"数直線的価値観"+α

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もうブログの冒頭の書き出しが、毎回寒さの話題になってしまうほど寒かったですが、週明けあたりから暖かくなるようですね。

この前冬が来たかと思うと、もう春というわけで、時の流れの速さを実感します。

そう言えば、大人になるほど時の流れを早く感じるのって、子どもに比べてトキメキが少なくなるからって話を前にテレビで見ました。

大人になってもトキメキを忘れないようにしたいものです。


さて、ここからが今日の本題。

突然ですが、皆さんは何か目標って持ってますか?

資格をとる、なりたい職業につく、素敵な彼女(彼氏)をつくる、結婚する、高い収入を得る、仕事で成功するetc...

向上心を持って夢や目標に進むのは素晴らしいことですが、それだけのいいの?というのが今日の話。


明確な目標というのは、たしかにモチベーションになりますが、一方で成功と失敗がはっきり分かるという面もあります。

成功すればいいですが、失敗すれば一気にモチベーションが下がる危険性を孕んでいるようにも思います。

そして、人生においては失敗することも多い。

就職やら結婚やら、大きなものだけでなく、小さなものも含めればむしろ失敗の方が多いとさえ言える。

むしろ、いくつもの失敗の中にたまに成功があるように思います。


成功や向上を重視する価値観を、私は"数直線的価値観"と呼びたいと思いますが、それだけでは人生辛くなると思うのです。



''数直線的価値観"の呼び名の由来。成功と失敗、向上と非向上の二元論的に考える価値観を図で表してみたら数直線を連想したことから


なぜなら、人は必ず成功するわけではないし、いつも向上できるわけでもないから。


では、どうするか?

オーストリア精神科医ヴィクトール・フランクルは、「いかなる状況下においても生きる意味を見出す」ことの重要性を説いています。



ヴィクトール・フランクル
詳しいプロフィールは過去記事(たとえ人生に何も期待しなくとも・・・ - 半平のきまぐれ日記)参照


フランクルユダヤ人としてナチスの収容所に入れられ、そこから生還した経験の持ち主です。

収容所の中は飢えと病気によっていつ死んでもおかしくないような極限状態でした。

しかし、その中でも生きる意味を見出した人間が生き延びる可能性が高かったことにフランクルは気づきました。


ナチスの収容所のような極端な状況でなくとも、不本意な現状やなりたい自分になれないことは、人生ではよくあること。

しかし、その不本意の中になにかしらの意味を見出すこと、これが大事であると思うのです。

前回の記事(静かに、健やかに、遠くまで - 半平のきまぐれ日記)で私は、「人生で思い通りに行かなくても投げ出さないことが大事」というようなことを書きましたが、その"投げ出さない強さ"の秘訣がここにあるという気がしています。


成功の華々しい物語は人生の本の一部、人生の多くの部分が、陳腐で退屈で、そして理不尽であったとしても、そこに意味をつくりだせる人が本当に強い人であり、そこにこそ人生の妙味があるとさえ、私は思うのです。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


フランクル心理学のエッセンスをユーモラスな物語形式で解説した本。今回の記事はこの本にインスパイアされて生まれました。
フランクル心理学の入門にぜひ

静かに、健やかに、遠くまで

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春がだんだん近づいてきたと思ったら、また真冬のような寒さに逆戻りしましたね。

普段は滅多に雪なんか降らない私の街でも、今朝は雪がちらつきました。


さて、最近"静かに行く者は健やかに行く、健やかに行く者は遠くまで行く"という言葉をよく思い出します。

フランス生まれの経済学者レオン・ワルラスの言葉で、私の好きな城山三郎さんが度々引用しています。



レオン・ワルラス(1834〜1910)
フランス生まれの経済学者。フランス生まれではあるが、彼の学者としてのキャリアは主にスイスで築かれたので、「フランスの経済学者」とは言い難い。
国立学校を中退したり、理事を勤めていた銀行が倒産したりと、祖国フランスではぱっとせず、36歳でローザンヌ大学に職を得た。こうした経歴を見るあたり、ワルラスも結構"苦労人・遅咲き型"のような気がする。
経済学に数学的手法を取り入れ、その精緻な分析手法は近代的経済学の基礎を築いた。彼を初めとする系譜を「ローザンヌ学派」という。
ワルラスの均衡」で経済学にその名を残す。


何となくいい言葉だなと思っていて、覚えていたんですが、ついこの間大きな挫折を経験して、その影響でメンタルがガタっと崩れて、また立て直してという経験を経て、その意味が本当にわかってきたような気がしています。


たとえば、私の挑戦にしてもかなり難易度が高く、よほど優秀な人でも運に恵まれない限り、成功するものではないと、今なら思います。

それが成功しなかったのは、私の努力が足りなかったからではないのだと。

また、それでメンタルが不調になったのも、自分で思っていた以上に一生懸命やっていたからで、がんばれない自分を責める必要はなかったのだと、今は思います。


努力が報われることの方がむしろ稀で、自分の力ではどうにもならないところで、自分の運命が動いていくことの方が多いのかもしれません。

人生という旅は、地図もなく舗装されていない道を行くようなもので、挫折に病気に災難、その他諸々とトラブルが実に多い。

時には立ち止まったり、回り道を余儀なくされることもある。

人間にできるのは、それでも旅をやめないことだけなのでしょう。

長い長い旅を一歩ずつ、自分のペースで。


静かに健やかに遠くまで (新潮文庫)

静かに健やかに遠くまで (新潮文庫)

ワルラスの言葉が題名になった一冊。今回の記事のタイトルも同じ。
中身は"城山文学名言集"で、城山文学の雰囲気を知るにはうってつけの本


兎のように軽やかに行く人もあれば、亀のようにゆっくりな人もいる。

兎を横目に見ても、決して焦らない。

亀には亀なりの行き方があると分かれば、そのゆっくりとした道行きがむしろ愉快にさえ思えてくる。

ワルラスの言葉が言わんとしているのは、亀のような愚直さ、誠実さであるような気がします。


そう言えば、アレクサンダー大王は三十代半ばで亡くなるまでにギリシャからインドに至るまでの広大な帝国を築き上げました。

モーツアルトは十代で既にヨーロッパ中の宮廷で名声を得ていた音楽家でした。

モーガン・フリーマンが俳優として名声を博したのは五十歳になる頃で、カーネル・サンダースケンタッキーフライドチキンを創業したのは、六五歳になってからでした。

人生のペースの多様なること、斯くのごとし。

やはり自分にあった速度で行くことが大事なのです。


私はたぶん、亀の方だけれども。


最後に名言をもう一つ

" その時々にできるだけのことをして、つまらん後悔はしないことだ。(中略)人にはそのくらいのことしかできんのだ"
byウッディ大尉(「機動戦士ガンダム」)




今回のような話を前にも書いたような、と思っていたら、3年前のブログを始めたばかりの頃の記事にありました。3年間の成長が見れる(だったらいいな)と思うので、こちらもお読みください(笑)


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

一人でいるのは賑やかだ

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

遅ればせながら明けましておめでとうございます。


寒い日が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

私は年末に発生したメンタルの不調はだいぶよくなりましたが、今度は風邪をひいてしまいました。

のどの痛み、鼻水、鼻詰まり、せき、それにしゃがれた声、なんていう風邪のフルコースを強制的に堪能させらてます(笑)

はたからもだいぶ辛そうに見えるようで、職場の女性陣から心配されるのだけは悪くありませんが(笑)


自分でも久々にキツめの風邪なんですが、不思議なことに熱は出ない。

いっそ高熱でも出た方が早く治るのかもしれませんが、それでも辛いから何日か仕事を休みました。

やたらに出歩くわけにもいかないので、基本的に部屋で過ごしていますが、自分しかいない部屋の中でぼんやりしてると色々なことを考えます。


そんな状況に置かれていると、一つの詩がよく頭の中に浮かんできました。

今日はその詩の話をしましょう。


それは茨木のり子さんの「一人は賑やか」という詩ですが、まずはその詩を読んでみてください。

一人は賑やか

一人でいるのは 賑やかだ
賑やかな賑やかな森だよ
夢がぱちぱち はぜてくる
よからぬ思いも 湧いてくる
エーデルワイスも 毒の茸も

一人でいるのは 賑やかだ
賑やかな賑やかな海だよ
水平線もかたむいて
荒れに荒れっちまう夜もある
なぎの日生まれる馬鹿貝もある

一人でいるのは賑やかだ
誓って負け惜しみなんかじゃない
一人でいるとき淋しいやつが
二人寄ったら なお淋しい

おおぜい寄ったなら
だ だ だ だ だっと 堕落だな

恋人よ
まだどこにいるのかもわからない 君
一人でいるとき 一番賑やかなヤツで
あってくれ


長年茨木さんの友人であったという、詩人の谷川俊太郎さんが、未発表の遺稿も含めた彼女の全作品から選んだ詩集。
茨木さんの詩集を読むのはこれが初めてでしたが、代表的な作品は一通り入っているので、これから入るのもいいと思います。



私はとても寂しがりやな反面、一人でいるのが好きでして。

あるいは、人の波に揉まれるのがひどく苦手といった方がいいかもしれません。

人混みには行きたくないし、大勢集まるような宴会に出ると、楽しんだとしても二時間もしたら帰りたくなる。

毎日だれもいない部屋に帰るのはわびしいよりむしろ、ほっとするところがあり、何より一人で趣味や考え事をしている時にもっとも充足を感じます。



茨木のり子(1926〜2006)

大阪府出身。十九歳のとき、敗戦を経験。結婚後、主婦業のかたわら詩作を続ける。韓国語を習い、韓国現代詩の紹介にも尽力した。
夫の死後、三十年以上一人で暮らしていたが、自宅で病死しているのを親族によって発見された。友人・知人などに宛てた遺書が複数用意されていたという。
代表作「自分の感受性くらい」、「わたしが一番きれいだったとき」、「倚りかからず」など。
厳しくも暖かい言葉によって紡がれた彼女の詩は、読むとしゃんと背筋を伸ばしたくなります。


そんな私にとって、この詩は自分のことを肯定してくれているような、自分の気持ちを代弁してくれているようで、初めて読んだときにとても嬉しく感じたのを覚えています。

「彼女もいなくて休日にひとりでも大丈夫だ!」と勇気をもらえます(笑)


他にすることもなく部屋にひとりでいると、自分が世界を変えられるような勇気が湧いてくることもある。

かと思えば、将来のすべてを悲観的に考えたり、悩まなくていいようなことで悩んだりする。

まさに「夢がぱちぱちはぜて」きて、「よからぬ思いも湧いてくる」わけですが、この実に忙しい自分の心が、文句を言いながらも結構好きだったりしてます。


さて、去年一年がかりで取り組んできた例の挑戦が頓挫してから、先のことを色々考えてます。

その結果、今まで「自分はこの道で行くんだ」と思ってたことを相対化することにしました。


先に夢や目標のようなものはぼんやり見えてますが、そこに至るまでの道は色々ある感じです。

拘りをなくしたことで自由になったようでもあり、縛りがなくなったことで行くべき道が分からなくなったようでもあり。

どちらにせよ、挫折していなければこんなことは考えなかった。

今のこの時間が、人生をより味わい深くしてくれたと、いつの日か思えるように、私は自分のすべきと思うことをしたいと思います。


そう言えば、"バスケットの神様"マイケル・ジョーダンは、「投げてしまったボールのことは気にしない」と言ったそうです。

終わったことをあれこれ考えがちな私には、薬になるいい言葉だと思っています。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

一休さんの言葉で読み解く「中学聖日記」

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。


前に本ブログでも取り上げたドラマの「中学聖日記」が先日最終回を迎えました。

二人の恋が幸せな結末になったことを暗示するラストで、私としては大変満足な終わり方でした。


ですから、あれこれ論評するようなことは敢えてすまいと思っていましたが、色々と考えさせられるドラマでしたし、ネットの論評記事などを読むうちにインスパイアされました。

そこで今回は、愚行かもしれないと思いつつ、私の敬愛する一休さんの言葉からドラマ「中学聖日記」を私なりに読み解いてみたいと思います。


火曜ドラマ 中学聖日記 公式ビジュアルBOOK

火曜ドラマ 中学聖日記 公式ビジュアルBOOK

番組公式ビジュアルブック。これを読んでドラマの名場面を脳内プレイバック!


さて、このドラマは中学教師の末永聖(有村架純)とその教え子の黒岩晶(岡田健太郎)が禁断の恋に落ちるというものですが、前の記事が晶目線で書いたものだったので、今回は聖目線で書きたいと思います。

最初、聖は自分に思いを寄せてくる晶を当然拒否します。

しかし、それでも自分に一途にぶつかって来て、自分の弱い部分も含めて愛してくれる晶に徐々に惹かれて行きます。

聖が自分の思いに気付いたとき、本当の意味でこの禁断の恋は始まるわけですが、そこからが俄然おもしろい。


今までは一生懸命世間の道徳や常識からはみ出すまいと生きてきた聖が、初めてそれを破る。

周囲は当然それを許さないわけで、聖自身も思いを断ち切ろうとしたり、やっぱり惹かれたり、それを繰り返す聖はどこか幼くて頼りない。

しかし、その迷う姿が人間くさくもあり、正直ではある。

そして、二人を引き離そうとする周囲の大人たちは「世間」を具現化しているようにも見えます。


人の生き方は極めて単純化して言えば、次の二つに分けられると思います。

常に世間の期待や規範を意識し、それに背かないようにする生き方。

あるいは、規範や道徳の一切合切を無視し、自分の思いや欲望に忠実になる生き方。


もちろん、実際はこの二つの極の間で人は揺れ動き、時に葛藤するわけですが、一休さんはこの矛盾にいかなる回答を示したのでしょうか。

その手がかりとなる言葉があります。

この世にて慈悲も悪事もせぬ人はさぞやえんま(閻魔)もこまわりたまわん

いいことも悪いこともしなかった人は閻魔様も裁きようがない、と言っているわけですが、私にはこの言葉が世間の矩を越えないことに汲々としている人への痛烈な皮肉に聞こえます。


日本人のこころの言葉 一休

日本人のこころの言葉 一休

一休さんの名言集。今回紹介した言葉もここから拾いました。私とはまたちがう解釈がされていておもしろいですよ。


常に無難な道を選び、だれからも嫌われないように振る舞う人というのは、たしかにまちがいがないのかもしれません。

しかし、そういう人はつまるところ自分の平穏を守ることだけを考えていて、だれも不幸にしない代わりに幸福にもしないのではないでしょうか。


かと言って、傍若無人に自分の欲望のままに生きるのも、やはりだれも幸福にはしない。

その間で迷い悩み、さりとて世間に流されない生き方を一休さんは肯定している気がします。


聖と晶の恋は、周囲の人を確かに傷つけました。

しかし、その過程で晶は聖を守れるような大人の男になることを決意し、聖もタイの日本語学校の教師という、自分の道を見つけます。

その姿は見違えるほど逞しい。


例えばもし、聖が晶に恋しなければ、彼女は相変わらず人目を気にして生きるだけの女性だったかもしれない。

あるいは聖が徹頭徹尾、晶の思いを拒絶していれば、晶はそのことが一生のトラウマとなって、恋愛に臆病になっていたかもしれません。

聖の行動は教師として、大人としてまちがっていたのかもしれませんが、少なくとも自分ともう一人の人間の人生を大きく変えた。

おそらく、より幸福な方に。

そう考えると、この恋の是非は簡単には下せないと思うのです。


意図せずとも人はだれかを傷つけ、時として人の非難を浴びたり、嫌われるような行為をしてしまうもの。

であるならば、間違わないことや、敵をつくらないことに汲々とするのではなく、自分の信じることを思いきりやる方が、よほど人間らしいと、私は思います。

少なくとも私自身はそのように生きたいと思うのです。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


「半平のきまぐれ日記」年内更新はこれが最後となります。

今年も一年、ご愛顧を賜り、ありがとうございました。

来年もぼちぼちやっていきますので、よろしくお願いします。