半平のきまぐれ日記

ADHD(注意欠陥多動障害)の会社員が本を読んで、映画を見て、あるいはその他諸々について思ったことを気まぐれに綴ります。(※本ブログはAmazonアソシエイトを利用しています。また、記事中の画像は、断りのない限りWikipediaからの引用、もしくはフリー素材を使用しています)

【人生の10冊】人間一匹、未練もなければ悔いもない

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。


今年の冬は例年よりも厳しく、また長かったような印象でしたが、ようやく暖かくというか、昼間は少し汗ばむような初夏の陽気になってきたように思います。

皆様はお変わりなくお過ごしでしょうか、私の方は前に勤めていた会社を退職しまして、縁あって新しい会社で働かせていただいております。

全てが希望通りというわけではありませんが、前の会社よりはるかにストレス少なく心穏やかに働かせていただいております。

精神的に追い詰めてくる上司がいないだけで断然に働きやすくなるということを痛感する今日この頃です(笑)


さて、最近ふとしたきっかけから、自分の人生に影響を与えた(与えるであろう)10冊を選んでみました。

せっかくなのでそれらについて1冊ずつ記事を書きたいと思います。

ちなみにその10冊は以下のとおり。

山本周五郎『さぶ』
ヴィクトール・フランクル『夜と霧』
城山三郎『打たれ強く生きる』
唯円歎異抄
手塚治虫火の鳥
坂口尚『石の花』
山本周五郎赤ひげ診療譚
・鉄人者編集部『弱った心がラクになる後ろ向き名言100選』
・南直哉『老師と少年』
雨瀬シオリ『ここは今から倫理です』

すでに記事を書いたことのある本も含まれていますが、それらについても新たに記事を書くことにします。

目標は月1本以上の更新。

では始めていきましょう。

記念すべき(かどうかは知りませんが)1本目は山本周五郎『さぶ』。



山本周五郎の作品は20代の終わりごろから読み始めました。

ちなみに私の好きな作家の変遷はざっくりまとめると赤川次郎(小学校高学年~中学生時代)→司馬遼太郎(中学時代)→浅田次郎(高校時代)→高杉良(高校時代~大学時代)→城山三郎山崎豊子藤沢周平(大学時代~20代中頃)→山本周五郎(20代終わり~現在(30代初め))。

過去に好きだった作家は好きな作家として残り続けはする(あっ、でも赤川次郎は中学時代、司馬遼太郎は高校時代を最後に読んでないか。嫌いというわけではないけど)んですが、それぞれの年代でいちばん熱心に読んだ作家というわけですね。


とりわけ山本周五郎は社会に出て、それなりに苦労してはじめて読めるようになりました。

少なくとも大学時代以前の自分が読んでも、良さがわからなかったと思う。

例えて言うならば子どものころには分からなかった、秋刀魚の味を知った感覚です(余計分からなくなった?)。


私の中では例えば城山三郎なんかは人間の可能性や強さ、聡明さを描くという印象があって、主人公が悲運の最期を遂げるとしても、困難な運命に果敢に立ち向かう姿を見せられることで勇気づけられることが多い(反対に山崎豊子なんかは救いようのない人間の愚かしさを描くのが上手くて、読後感は重くなるんですが(笑))。

今より若い頃はその明るさ、格好良さが好きでよく読んでいましたが、自分なりに色んな経験をしてその度に右往左往して、自分の弱さも知った今となっては、その明るさを素直に信じることはもはやできそうにない。

有り体に言えば「人間そんないいもんじゃねえよ」と(笑)


山本周五郎はその点、人間の強さと弱さ、賢さと愚かさ、美しさと醜さ、最良の部分と最悪の部分の両方を描いて、その上でそれらの間を往き来する存在として、人間を肯定するところがある。

「そんないいもんじゃない」からいいんだよと言ってくれてる気がするのです。


おっと、1000字以上も書いてまだ本題に入っていませんでした。

『さぶ』は周五郎作品の中でも後に紹介する予定の『赤ひげ』と並んでいちばん好きな作品です。

時は江戸時代の後半、表具屋の大店「芳古堂」でともに奉公する栄二とさぶ。

二人は親友でしたがなんでも器用にそつなくこなす栄二と、不器用でいつまでも経っても糊の仕込みしかさせてもらえないさぶは、対象的な二人でもありました。


栄二は一人で仕事も任され、のれん分けも近いと見られていました。

そんなある日、栄二を災難が襲います。

仕事で出入りしていた得意先から高価な金襴の切を盗んだ疑いをかけられたのです。

これは濡れ衣でしたが長年奉公していた店の主人からも信じてもらえず、疑いを晴らそうとして行動するほど事態は悪化し、挙句の果てに栄二は石川島の人足寄場(幕府がつくった犯罪者収容施設。比較的罪の軽い囚人に技能を身につけさせ更生させることを目的とした。世界初の更生施設ともいわれる)に送られます。



人足寄場についてはこちらの記事も参考にお読みください。


世の中を恨みだれも信じず、自分を陥れた人間に復讐することだけを考えていた栄二にさぶだけが変わらず寄り添い続けます。

何度拒まれても栄二に会うために石川島に通い続けるのでした。


そんなある日、栄二は寄場での作業中に事故に遭い、急死に一生を得ます。

危うく命を失いかけたときに栄二が思わず呼んだのはさぶの名でした。
そして、自分が決して心を開かなかった囚人仲間が必死に自分を助け、その生還を我が事のように喜んでいるのを見て、栄二の中で何かが変わり始めます。


本作は題名こそ『さぶ』ですが、その内心が直接的に描かれるのは栄二だけで、全て栄二の視点で物語は進みます。

その意味で主人公は栄二だと言ってもいい。


けれどももう一人の主人公はまちがいなくさぶです。

さぶは栄二のように器用でもないし、人を疑うことも知りません。
いつもおどおどしていて正直で真面目なこと以外、何の取り柄もないようにさえ思えます(ちょうど宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」に出てくるような)。

けれど栄二に寄り添い続けた、その愚直さが栄二を救い、彼を立ち直らせる力になった(おそらくさぶは、栄二を見捨てることなど考えもしなかったにちがいないでしょう)。

愚直とは「愚か」なまでに「真っ直ぐ」であると書きます。

今の世の中、やたらと「効率」とか「コスパ」という言葉が言われていて、「要領よく」生きることが重視され過ぎているような気もしますが、さぶの姿を見ていると愚かなまでに真っ直ぐであることが、どれほど得難く貴重な資質であるかということが思い出されるのです。


さて物語の最後、栄二は「寄場での三年は娑婆での十年よりためになった」という心境に到達します。

そしてラストシーン、心から栄二にさぶという人がいてよかったと思えます。

それはぜひとも実際に読んでみて確かめてほしいんですが、私も栄二ほどではないにせよ、それなりに苦労したと思っています。

自分の人生になんの希望もないと思ったこともあります。

けれどもそういう苦労を経験する前の自分と、経験した後の自分では迷いなく後者の方が好きだと言えます。

もっと言えば、そういう苦労を経験しないまま齢を重ねていたら、ひどくつまらない人間になっていたような気がするし、あるいは独善的な人間になっていた気もします。

だから栄二の気持ちにとても共感できる。


自分がどれほど気をつけていたとしても、栄二のように理不尽な運命に見舞われることはだれにでも起こり得ます。

何をしようと何をすまいと災難に遭う時は災難に遭うし、苦労する時は苦労するし、うまくいかない時はうまくいかない。

それはただ受け止めればよいのだと、最近思うようになりました。

たかが人間一匹、悔いたり未練を持つようなことはないのです。

ただ、その時々を生きればよいのです。

そうすれば寄り添ってくれる人がいることに気づくかもしれないし、希望があることにも気づくかもしれないのですから。


今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

したたかな二代目

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お久しぶりです、半平です。 

実は今月いっぱいで今の仕事を辞めることになりました。

当面自由な時間が増えますので、少しずつブログを書いてみようと思います。

さて、今年の大河ドラマ鎌倉幕府二代目執権の北条義時を主人公とした、三谷幸喜脚本の「鎌倉殿の13人」。

北条義時のことは「名前を言われたら思い出す」程度にしか知らなかったので、予習として『北条義時』(岩田慎平、中公新書)を読むことにしました。


前半で平氏政権成立と滅亡、鎌倉幕府の成立、頼朝死後の鎌倉幕府の状況を叙述し、後半では北条時政の失脚を機に鎌倉幕府の中心に躍り出た北条政子と義時のきょうだいの行動と承久の乱に至るまでの過程が描かれています。

分かりやすくまとまっており、義時の伝記でもあると同時に鎌倉幕府成立史としてもおもしろく読めると思います。


鎌倉幕府の成立というと、いまだに「古代の支配階層であった貴族から、新しく台頭してきた武士が実権を奪う」といったような階級闘争的な見方が巷間では強いと思いますが、頼朝に味方した武士にそのような意識はなく、自分たちの利害のために源氏の貴公子たる頼朝を担いだのであって、そこにイデオロギーや共通の理念のようなものはありません。
(そもそも近年の武士の成立過程の研究では、武士を「軍事貴族」という、王朝国家の下で軍事という職能を担った貴族として捉えています。)

故に平氏という共通の敵を打倒した後に、伏在していた御家人間の利害対立が表面化し、それが頼朝死後に北条氏が同僚の御家人を次々滅亡させてくことの遠因となります。


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北条義時


大河ドラマでは義時はまだ10代の若者で、父や兄や姉に振り回されているだけですが、その後の義時は一族の権力維持のために甥でもある二代目鎌倉殿・源頼家を殺害し、父の時政を失脚させ、さらに数々の粛清に協力してきた和田義盛も滅ぼします。

姉・政子とともにこうした数々の粛清劇の少なくとも一部を積極的に主導してきたのを見るにつけ、少なくとも義時は真面目な補佐役というだけではない。

かなりしたたかで腹黒い(と言うか本当にヤバいのは政子なんじゃないかという気もしますが)。

大河ドラマでは小栗旬さんと小池栄子さんが義時と政子を演じていますが、この二人が謀議をしてるところなんて、かなり絵になると思うので楽しみです(三谷大河だからコメディタッチになるんだろうか)。

今のところ周りに振り回されている義時が、どのようにしたたかで(腹黒い)政治家に変貌していくのか、それが大河ドラマでどう描かれるのか、楽しみにしたいところです。

今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

「弱い」ということの価値

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うだるような暑い日々が続きますが、皆さんお元気でしょうか?

私は7月の下旬から復職しました。

毎日しんどいですが、スモールステップを踏みながら何とかやっています。


先日少しショックな出来事がありまして、就労移行支援事業所に通っていた頃に私を担当してくださった職員さんが、急遽退職されることになったそうです。

就職してからも何かと相談に乗っていただいたりして、家族にも言えないこともその人になら言えたりしました。

足かけ5年ほどずっと私を見守ってくれていた、心情的にはお姉さんのような人でした。

だれかと出会うことは、どんな形であれ、すなわち別れが約束されたことであると頭では分かっていても心の一部が欠けてしまったような、そんな喪失感がぬぐえません。

この喪失感は消えないとしても、いつか慣れていくのでしょうか?


さて、今日は好きなドラマの話をしたいと思います。

2020年1月から2月にかけてNHK土曜ドラマ」枠で放送された、「心の傷を癒すということ」。

阪神・淡路大震災の際に自らも被災しながら、被災者への精神医療活動に当たった、安克昌医師の同名手記が原案です。

安医師をモデルとした主人公の精神科医・安和隆を柄本佑さんが演じ、妻役の尾野真知子さんや恩師役の近藤正臣さんらが脇を固めます。


主演の柄本佑さんが、いかにも優しくて繊細そうな医師役を好演していて、こんなお医者さんがいたら何でも聞いてもらいたくなりそうでした(笑)


ドラマの元になった手記。被災者の精神救護にあたる中で、著者の安医師自身も精神的な変調の兆しが見られるなど、被災地においては救護者もまた傷ついていたのだ、ということがよく分かります。
安医師は2000年に39歳で病死されていますが、下段はその追悼文などを所収した増補版です。



それはさておき、今回はこのドラマで特に印象に残ったシーンについて話しましょう。

それは安が避難所で小学生の男の子と話すシーン。

地震で祖父が行方不明になったその子に、辛いことがあれば我慢せずに話すようにと言う安。

「男のくせに弱音を吐いたらおじいちゃんに笑われる」という男の子に対して、安が語りかけたのが次のセリフ。

「弱いってええことやで。弱いから他の人の弱いとこが分かって助け合える。おっちゃんも弱いとこあるけど全然恥ずかしいと思てへん」


休職中に私はこのドラマを見返しましたが、このセリフを聞いた途端に声を上げて泣いてしまいました。

今回の私もそうですが「心が折れた」人は、大なり小なり折れた自分に対する罪悪感や、自責感を持っている人が多いと思います(私は今でもありますが)。

そんな私に対してこのセリフは、自分の「弱さ」を肯定されたようで、気がついたら泣いていました。


前の記事(柔らかな皮膚しかないわけは・・・ - 半平のきまぐれ日記)にも書きましたが、私は人間の持つ「弱さ」にはそれ自体、価値があると思います。

それは「弱さの中の強さ」というような、結局は「強さ」の肯定であるというようなものではなく、「弱さ」は弱さとして価値があると、私は思うのです。

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ドラマ版です

私は人間と動物の最大の違いの一つは、「弱くても生きられる社会」をつくったことだと思っています。

動物にも親が子どもを守るというような意味での弱者保護はあるでしょう。


人間はそれだけではなく、自分とは縁も所縁もないような「弱者」も守ろうとする。

何百年、何千年の試行錯誤の結果ではありますが、「社会福祉」としてそれを制度化までした。

そういうところに人間と動物の最大の違いを、私は見るのです。


ドラマと手記の両方で、安医師は問いかけます。

「今後の日本の社会は、この人間の傷つきやすさをどう受け入れていくのだろうか。傷ついた人が心を癒すことのできる社会を選ぶのか、それとも傷ついた人を切り捨てていく厳しい社会を選ぶのか」


今後、社会の変化は加速することはあっても減速することはないでしょうし、気楽に未来を考えることもなかなか難しい。

こぼれ落ちる人が増えても、人々はそれを思いやる余裕を失っていくかもしれません。


安医師の問いかけは21世紀の日本で、むしろ重みを増しているように思えます。

もちろん私は、前者の社会になっていくことを望みますが、そのために自分にできることはないかと、今考えているところです。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


気持ち悪い小説(ほめてます)

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私はまだ休職中ですが、最近はだいぶ元気が出てきまして、読書と映画で暮れて行く1日を楽しむ余裕が出てきました、

今日はそんな中で久々に再読した小説の話をしようと思います。

小野不由美残穢』。


原作小説


主人公でもあり語り手である女性作家の「私」に寄せられた読者「久保さん」からの手紙。

そこには最近引っ越したマンションの和室から、なぜか畳を擦るような音がするという些細な「怪異」が綴られていました。

興味を惹かれた「私」は久保さんとともに怪異の原因を追って、土地の歴史を調べ始めると、次々にとんでもない因縁が明らかになって―という筋書きです。

まずおもしろかったのは、付近の住民の証言と、古い地図といった史料を突き合わせて、土地にまつわる歴史を浮かび上がらせるという謎解き。

歴史学研究の手法そっくりで、大学で歴史学を専攻した私は、特におもしろく読みました。

同じ作者による実話怪談集。「おきにいり」と「欄間」は『残穢』と内容がリンクしています。実話怪談が99話。『残穢』とあわせて百物語になっているので、通して読んでみてください

 
小説を読むというのは、身は「実」の世界に居ながらにして、意識は「虚」の世界で遊ぶという、遊園地のアトラクションにも似た娯楽であると思っています。

残穢』を読むときももちろん、「虚」として読む。


しかし、女性作家「私」は設定的にどう考えても作者の小野不由美さん本人ですし、作中にも実在の作家が数人、実名で出てきます。

また、同じホラーでも「呪いのビデオ」のようないかにもなアイテムがあるわけではないし、強烈な個性を持った怨霊が出てくるわけでもない。

だれもに関係がある「住居」という場所で、「正体不明の音」、「見間違いかもしれないあるはずのないもの」、「なぜか人が居つかない部屋」といった、だれでも大なり小なり覚えがありそうな、

「ちょっと不可解な現象」が起こる。
その正体を確かめようとして、軽い気持ちで始めた調査が、思いがけない人間の業を掘り当て、一つの源へ収束していく―。


そして、どんな家が立つ土地にも連綿とした歴史がある以上、それはだれにとっても他人事ではないのです。

その事実に気づいたとき、安全な「実」の世界にいたはずが、いつのまにか「虚」の世界に立たされている自分に気づく。

いや、「実」と「虚」のどちらともつかぬような、そんな世界に放りこまれたというべきか。



映画版。原作をきれいにまとめた、ドキュメントホラーになってます。原作を読んでから見れば、ある「仕掛け」に気づくはず。ラストがあれでなきゃ、Jホラー有数の傑作になったと思うんですが・・・



私はこの小説を読み終えたとき、住みなれて気に入っている自分の部屋が、少し怖くなりました。

本作は山本周五郎賞を受賞しましたが、選考委員からは「この本をずっと家に置いておきたくない」という声があったそうです。

それもむべなるかな、怖いというより「気持ち悪い」読後感(ほめてます)。
これって本当にあった話なんですかね。


家や部屋にまつわる怪談と言えば「事故物件住みます芸人」松原タニシさん。タニシさんが実際に住んだ事故物件を中心にある種のドキュメントになってます。夏の夜のお供にぜひ


今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

柔らかな皮膚しかないわけは・・・

 いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

休職期間も半ばになり、精神的にも安定してきましたので、そろそろ職場復帰に向けて準備を始めています。

まずは通勤の練習から。

毎朝職場への最寄り駅で降り、次にバスに乗り換え、無理のない範囲で少しずつ職場へ近づいて行こうと思っています。

とりあえず、毎日会社の前まで行けるようになるのが目標です。

さて、話は変わりますが、今から15年ほど前に「Dr.コトー診療所」っていうドラマがあって、その主題歌が中島みゆきさんの「銀の龍の背に乗って」っていう歌だったんですが、その2番の歌詞が最近胸に沁みます。




特に「柔らかな皮膚しかない理由(わけ)は、人が人の痛みを聴くためだ」っていうところが涙が出そうなくらいぐっときます。

人の心がいかに傷つきやすくて、脆いものかっていうのを今まさに身を以って実感していますが、でもだからこそ、人は人の痛みを想像することができる。

この歌詞の意味はそういうことだと理解していますが、それをあんな言葉で表現するのは、さすが中島みゆきだと思います。

 
「知る」では理知的過ぎて、頭でっかちな感じがするし、「感じる」は語呂が悪くなるし、人は他人の痛みを想像することはできても、やはり感じることはできない。

その人の「痛み」はその人だけのもの。
でも分かりたい、と思うから、せめて想像する。

そのあたりの微妙さを「聴く」という言葉にしたところが実ににくい。


作者病気のため長らく休載になっていますが、続きが読みたいので、気長くお待ちしております。


自分で言うのも変ですが、私はやっぱり繊細で、共感性が高く、想像力がやや過剰で、生真面目なのだと思います。

そういう自分を守るためにも、人前では明るく振舞い、ふざけたり冗談を言ったりしていますが、今回のような目に遭うと、どうしようもなく傷つきやすい自分が顔を出す。


ドラマ版の主演は吉岡秀隆さん。大学病院から逃げるように離島の診療所に来て、悩みながらも真摯に患者に向き合う役を好演されていました。朝ドラの「エール」でも医師役を演じられていましたが、医者役似合いますね、この人。

前に私と同じような発達障害の方をサポートする仕事に就きたいと思ったことがあったんですが、「半平さんは相手に共感し過ぎて、ミイラ取りがミイラになるかもしれないからやめた方がいい」とある人に言われて、妙に納得して断念したことがあります。


けれど、今回のことで傷ついた人や、生きづらさを抱える人に寄り添うような活動ができればいいと、改めて思いました。

傷ついたことがある人ができる最良のことのひとつは、傷ついた分だけ、だれかに優しくできることだろうと、私は思うのです。

別にそれで飯を食わなくてもいい。

ただ、自分なりの方法を探して行こうと思います。
人が人の痛みを聴くために―。

今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

後ろ向き名言3選

いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。


めちゃくちゃお久しぶりの半平でございます。

皆様、お元気でしたでしょうか。

ご無沙汰している間に私の身辺は様変わりしました。

まず、今年の1月に3年半お世話になりました図書館を退職し、2月からとある民間企業で事務系の仕事をしています。

そして、入社5カ月目にあたる先月からメンタルの不調で休職しています。

まさか入社5カ月で休職するとは思いませんでした。


慣れない仕事で苦労して、ストレスがたまっている自覚はありましたが、ある朝突然会社の最寄り駅のプラットホームから1歩も足が動かなくなりました。

「今日は仕事に行けない」と悟ってそのまま反対側の列車に乗り込み、かかりつけの精神科を受診し、今に至ります。


幸い会社はゆっくり治すように言ってくれましたので(感謝!)、今月下旬まで1カ月休職させてもらっています。

ブログを休んでいる間に書きたいこともだいぶできましたし、自己治療も兼ねてゆっくりブログも再開していこうと思っていますので、お付き合いいただけましたら嬉しく思います。

さて今日は私のお気に入りの本『後ろ向き名言100選』から特に好きな言葉を3つ紹介したいと思います。


たとえですね、明日死ぬとしても、やり直しちゃいけないって、誰が決めたんですか?誰が決めたんですか?古畑任三郎

私も好きなドラマ「古畑任三郎」第3シーズン第5話「再会」の中で主人公の刑事・古畑任三郎(田村正和)のセリフです。

この話で古畑は旧友で作家の安齋(津川雅彦)の別荘に招かれます。

しかしそれは、担当編集者と不倫した年若い妻に対する復讐のためでした。

安齋は妻による他殺に見せかけて自殺し、古畑に妻を逮捕させようとしていたのでした。

しかし、古畑によって計画は見抜かれ、自殺を思いとどまらせるべく、古畑は安齋を説得します。

スキャンダルにまみれ、地位も名誉も全て失い、死ぬより辛い日々が待ち受けていたとしても生きるべきだと強く言った後、古畑は上記の言葉をかけるのでした。

私は辛いことがあった時や挫折をした時に、この言葉をよく思い出します。

「明日死ぬ」としてもやり直せる、のならば何度でも一からやり直せばいい、という勇気と力を得るのです。



本文中で言及したシーン。必死に説得しようとする古畑の少し上ずった声や、生きることを決意して精気を取り戻す安齋の目、といった本当に細かいところを名優二人が演じています。二人ともすでに故人なのが感慨深い

愛が信じられないなら、愛なしで生きてごらん。世の中が信じられないなら、世の中を信じないで生きてごらん。人間が信じられないなら、人間を信じないで生きてごらん。生きるということは恐らく、そうしたこととは別ですよ井上靖『城塞』より

60年以上前に毎日新聞で連載された、井上靖『城塞』に出てくる科白です。

主人公の江上透子は長崎の原爆で被爆し、その身の上故に思いを寄せてくれる男性・高津の気持ちを喜びながらも受け容れられずにいました。

題名の「城塞」はそんな彼女の頑な心を比喩した言葉でもあります。

心を閉ざす透子に相談役の桂正伸が語りかけたのが上記の言葉です。

今の世の中例えば、SNSを見れば、TL上に他人の充実した生活や、幸福な一コマがこれでもかと並び、書店やネットには自己啓発や世俗的な成功の方法を説いた本や記事で溢れかえっています。

まるで人々を「成功」に駆り立て、人生に「意味」や「価値」がなければならないと言わんばかりに。

それが間違っているとは言いませんが、さりとて追い立てられるのはしんどいもの。

そもそも「望まれて」生まれた人はいても、自ら「望んで」この世に生れて来た人はいません。

人生など無意味で無価値で当たり前だと思うのです(だからこそ人は、意味を求めてしまい、だからこそ、しんどくて切ないのかもしれませんが)。

愛がなくてもいい、何かを信じられなくてもいい、意味も価値も見つけられなくてもいい、それでも生きていていいのだと、桂の言葉は優しく背中を押してくれるように、私には聞こえます。

井上靖『城塞』はとっくに絶版になっていますので、お読みになりたい方は古本を探すか、『井上靖小説全集』23巻(新潮社)を図書館で借りるか、電子書籍をご利用ください。私も読みます。

胃に差し込むような痛みがありますので、どうか辞めさせてください二宮尊徳(金冶郎)

最後は、江戸時代に農民の家に生まれ、経世家として農村の復興事業などに活躍した二宮尊徳の言葉です。

幕府から下野国(現・栃木県)のある農村の復興事業を命じられた尊徳。

精力的に事業に取り組みますが、現地の農民からの協力は得られず、むしろ反発されてしまいます。

6年間事業は遅々として進まず、ある日尊徳は上の言葉を置き手紙に書いて失踪してしまいます。

3カ月後尊徳が村に戻ると不思議と農民たちは協力的になり、事業は見事完成を見たのでした。

勤勉克苦の代名詞のような二宮尊徳でさえ、仕事を投げ出したことがある。

ましてや我々のような凡人が仕事に行けなくなることがあっても無理ないんじゃないでしょうか。


いかがでしたか?
皆さんの心に響く言葉はありましたでしょうか?

今回紹介した言葉がだれかの目にとまって、その人の生きづらさを少しでも救うのなら、そんなに嬉しいことはありません。

今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

公平な不平等

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いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

自粛下のおり、いかがお過ごしでしょうか?

先日、多くの府県で緊急事態宣言が解除されましたが、私の住む県はいまだに宣言下にあります。

しかしながら、今の第一波(国立感染症研究所によれば今流行しているのは欧州由来の"第二波"。武漢由来の"第一波"は封じ込めに成功していたようです)は何とか収束しそうな状況です。

一気に元の生活には戻れませんが、とりあえず一息つける情勢なのかなと思っています。


さて、世間では映画館も軒並み休館、新作映画も公開されないとあっては、ブログのネタもあまりありません(笑)

ただ、ステイホームのお供に思考実験の本を買っていましたので、その中からおもしろそうな問題を考えてみるシリーズを始めたいと思います。



記念すべき第一回目は「公平な不平等」という問題を取り上げます。(※以下の問題文はブログ筆者による要約であり、文中に登場する単位等、わかりやすくするために改めています)


あるところに三人の小学生の息子を持つ父親と母親がいました。

二人は常に子どもたちを平等に扱うように心がけていました。

今日はクリスマスプレゼントに息子たちが欲しがっていた携帯ゲーム機を買いにおもちゃ売り場に来ています。

ゲーム機は一台一万円、何の問題もなくそれを三台買って帰ろうとしたら、父親の目に貼り紙が飛び込んできました。

「今最新型携帯ゲーム機(一万五千円)を二台買えば、旧型携帯ゲーム機(買う予定のもの)を一台プレゼント!」

父親は言います、「同じ値段で最新型のゲーム機が二台買えるじゃないか!」

母親は反論します、「でもそれじゃあ、三人のうち一人は古いゲームが当たってしまうのよ。そんな不平等なことできないわ」

さらに父親が言います、「でも、初めの予定より悪いものはだれも貰わないんだぜ?」(『100の思考実験』38〜39ページより)


さて、皆さんは父親と母親、どちらの言い分に賛同しますか?

あるいはどちらにも賛同しませんか?


父親の言うとおり、確かに最初の予定より劣ったものを貰う息子はいないわけで、その意味では少なくとも不公正ではないように思えます。

また、限られた予算でより良いものが手に入るのであれば、合理的であるとも思えます。


一方で母親の言い分にも理はあります。

三人ともに最新型のゲーム機が行き渡るのは数的に無理ですし、それは確かに不平等であるように思えます。

それにそんなことをすれば、兄弟喧嘩の元になるでしょうし、旧型のゲームを貰った一人は、兄弟や両親を恨むかもしれません。

さりとて、三台とも旧型を買うのは何だか損した気分です。


ここで少し、アプローチを変えてみましょう。

仮に最新型を二台買うとして、ゲーム機の分配法を工夫してみては?

例えば、ジャンケンで決めるとか。

両親が一方的に決めるよりはいい方法に思えますが、やはり問題はあります。


負けた一人が納得しなかった場合、やはり兄弟と両親を恨むかもしれません。

真に公正かつ平等な競争を経て、貧富の差が生まれたとしても、それを不満に思う人は絶対にいるでしょう。

「兄弟」という極めて小さなコミュニティであれば、尚更それが強くなる可能性もあります。(さらに厄介なことに現実世界では、真に公正かつ平等な競争はおそらく実現しません。出自や環境など、本人には帰責できない要素を排除することが困難ですし、それが決定的な不利になることもある)


私がこの親であればどうしたでしょうか?

教育的効果を狙って、敢えて最新型のゲーム機を二台買って、息子達と一緒に、みんなで仲良く最新型のゲーム機で遊べるようにする方法を考えると思います。

現実世界における、富の再分配のような。


皆さんのご意見はいかがですか?

よろしければコメント欄にお書きください。


今日はこんなところです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。