この「生きづらい」ときに何ができるか
いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
世間では新型コロナウイルス流行の収束の兆しが見えず、外出を自粛されている方も多いのではないでしょうか?
仕事も自宅待機かテレワークをされている方もいるかもしれません。
私はバリバリのインドア派なので、休みの日に外出しないのはむしろ大歓迎なんですが、それでも先行きの見えない状況、漠然とした不安が延々と続くというのは辛い。
心の疲労をはっきりと感じ取っています。
そこで、具体的に何がストレスの原因になっているのかを分析してみました。
その結果わかったのは、ウイルス自体への不安はさほど大きなストレス因子ではないということ。
感染のリスクは手洗いやうがい、人と接する機会を減らすこと、人との物理的な距離を取ることなどで、かなり減らせると聞きます。
また、自分が感染・発症し、自宅療養する場合の準備もすでにしてあるし、重症化リスクも相対的に低いので、感染に対する不安はストレス因子になりにくい。
では何がストレスの原因になっているかというと、それはウイルスではなく、社会にありました。
特にメディアの不安を煽るような報道、ネットなどで飛び交う感情的な言葉、さらには感染リスクを冒して働いてくれている小売店の店員さんなどへの心ない言動、最前線で戦ってくれている医療従事者への差別などを報道等を通じて見聞きするたび、人間の嫌な部分を見せつけられているようで、本当にうんざりしていたのでした。
もっと言うなら、そんなことに反応し過ぎて心の疲労が蓄積したのでしょう。
最近映画の「もののけ姫」を見ましたが、その中で「戦、行き倒れ、病に飢え。人界は恨みを残した亡者でひしめいとる。タタリというなら、この世はタタリそのもの」というセリフが出てきて、今この時だからこそ、響く言葉だなあと思いました。
いくら科学技術が進んで、物質的に豊かになったとしても人類は疫病ひとつ克服できない。
ましてやいつの時代もある種の「生きづらさ」を感じている人は少なくとも一定数いて、それを無くすことは絶対にできないのだと思います。
こんな時だからこそ、その生きづらさがより感じられるのではないでしょうか。
私もその一人ですが。
しかし、一方でお釈迦様は二千年以上前にその生きづらい世の中で、いかに生きるべきかを考え続けた末に仏教を開いた。
また、そこから発展した大乗仏教の教えは、その生き難い世で迷い悩みながら生きる衆生をこそ救うべきと説きました。
このことに思い出すとき、私は大きな勇気を得るのです。
今回の流行にしても、「だれかが何とかしてくれる」と考えるのではなく、一人ひとりがウイルスと戦う当事者として、できることがあるはずなのです。
例えば全くの素人のタレントやワイドショーのコメンテーターの意見ではなく、最前線で戦ってくれている専門家の意見を聞いて、冷静に行動すること。
みんなのことを考え、不要不急の外出、必要以上の物は買わないこと。
どんな時も心に余裕を持ち、人に和やかな態度で接すること。
希望や明るさを失わないこと(そのためにはユーモア、笑いが大事ですね)。
今はだれもがしんどいのだと思います。
そんな時こそ、一人ひとりの行動が現在と未来の社会を守り、ひいては自分の未来を守ることにつながるのではないでしょうか。
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
最後に自分の行動を考える上で参考になりそうなページのリンクを貼っておきます。