一休さんの言葉で読み解く「中学聖日記」
いつも当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
前に本ブログでも取り上げたドラマの「中学聖日記」が先日最終回を迎えました。
二人の恋が幸せな結末になったことを暗示するラストで、私としては大変満足な終わり方でした。
ですから、あれこれ論評するようなことは敢えてすまいと思っていましたが、色々と考えさせられるドラマでしたし、ネットの論評記事などを読むうちにインスパイアされました。
そこで今回は、愚行かもしれないと思いつつ、私の敬愛する一休さんの言葉からドラマ「中学聖日記」を私なりに読み解いてみたいと思います。
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さて、このドラマは中学教師の末永聖(有村架純)とその教え子の黒岩晶(岡田健太郎)が禁断の恋に落ちるというものですが、前の記事が晶目線で書いたものだったので、今回は聖目線で書きたいと思います。
最初、聖は自分に思いを寄せてくる晶を当然拒否します。
しかし、それでも自分に一途にぶつかって来て、自分の弱い部分も含めて愛してくれる晶に徐々に惹かれて行きます。
聖が自分の思いに気付いたとき、本当の意味でこの禁断の恋は始まるわけですが、そこからが俄然おもしろい。
今までは一生懸命世間の道徳や常識からはみ出すまいと生きてきた聖が、初めてそれを破る。
周囲は当然それを許さないわけで、聖自身も思いを断ち切ろうとしたり、やっぱり惹かれたり、それを繰り返す聖はどこか幼くて頼りない。
しかし、その迷う姿が人間くさくもあり、正直ではある。
そして、二人を引き離そうとする周囲の大人たちは「世間」を具現化しているようにも見えます。
人の生き方は極めて単純化して言えば、次の二つに分けられると思います。
常に世間の期待や規範を意識し、それに背かないようにする生き方。
あるいは、規範や道徳の一切合切を無視し、自分の思いや欲望に忠実になる生き方。
もちろん、実際はこの二つの極の間で人は揺れ動き、時に葛藤するわけですが、一休さんはこの矛盾にいかなる回答を示したのでしょうか。
その手がかりとなる言葉があります。
「この世にて慈悲も悪事もせぬ人はさぞやえんま(閻魔)もこまわりたまわん」
いいことも悪いこともしなかった人は閻魔様も裁きようがない、と言っているわけですが、私にはこの言葉が世間の矩を越えないことに汲々としている人への痛烈な皮肉に聞こえます。
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常に無難な道を選び、だれからも嫌われないように振る舞う人というのは、たしかにまちがいがないのかもしれません。
しかし、そういう人はつまるところ自分の平穏を守ることだけを考えていて、だれも不幸にしない代わりに幸福にもしないのではないでしょうか。
かと言って、傍若無人に自分の欲望のままに生きるのも、やはりだれも幸福にはしない。
その間で迷い悩み、さりとて世間に流されない生き方を一休さんは肯定している気がします。
聖と晶の恋は、周囲の人を確かに傷つけました。
しかし、その過程で晶は聖を守れるような大人の男になることを決意し、聖もタイの日本語学校の教師という、自分の道を見つけます。
その姿は見違えるほど逞しい。
例えばもし、聖が晶に恋しなければ、彼女は相変わらず人目を気にして生きるだけの女性だったかもしれない。
あるいは聖が徹頭徹尾、晶の思いを拒絶していれば、晶はそのことが一生のトラウマとなって、恋愛に臆病になっていたかもしれません。
聖の行動は教師として、大人としてまちがっていたのかもしれませんが、少なくとも自分ともう一人の人間の人生を大きく変えた。
おそらく、より幸福な方に。
そう考えると、この恋の是非は簡単には下せないと思うのです。
意図せずとも人はだれかを傷つけ、時として人の非難を浴びたり、嫌われるような行為をしてしまうもの。
であるならば、間違わないことや、敵をつくらないことに汲々とするのではなく、自分の信じることを思いきりやる方が、よほど人間らしいと、私は思います。
少なくとも私自身はそのように生きたいと思うのです。
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「半平のきまぐれ日記」年内更新はこれが最後となります。
今年も一年、ご愛顧を賜り、ありがとうございました。
来年もぼちぼちやっていきますので、よろしくお願いします。