あなたは愛したい派?、愛されたい派?―ヘルマン・ヘッセ「アウグスツス」
皆様、明けましておめでとうございます。
今年も「読んでくれた人が少しばかり元気になるブログ」を目指しますので、「半平のきまぐれ日記」をよろしくお願いいたします。
[ヘルマン・ヘッセ(1887~1962)
言わずと知れたドイツの文豪。もっとも作品は、今日紹介した「アウグスツス」が入っている『メルヒェン』しか読んだことがありませんが。
代表作『車輪の下』、『デミアン』、『ガラス玉遊戯』。1946年、ノーベル文学賞受賞。]
さて、新年早々ですが、一つ思考実験をしてみましょう。
あなたの前に魔法使いが現れて、「だれにでも愛されるようになる魔法」と、「だれでも愛せるようになる魔法」どちらかをかけてあげる、と言われたらどちらを選びますか?
そんな話が今日ご紹介する、ヘルマン・ヘッセの短編「アウグスツス」です。
- 作者: ヘッセ,高橋健二
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1973/07/03
- メディア: 文庫
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[元々は第1次世界大戦の従軍兵士向けに書かれた短編童話集。冒頭の「アウグスツス」だけで¥432以上の価値がありますが、私は「詩人」も結構好きです。]
ある若い母親の元に魔法使いの老爺が現れて、「おまえの息子の人生を願い通りにしよう」と言われます。
迷った母親は、「だれにでも愛されるように」と願いをかけます。
願い通りに彼女の息子、アウグスツスは、子どもの頃から行く先々でだれにでも愛されるようになります。
だれもが彼の歓心を買いたがり、贈り物をし、援助をし、あるいは愛情を注ぐ。
そんなアウグスツスは、当然のごとく傲慢で歪んだ性格に育ち、周りの人を騙し、陥れ、非道な仕打ちをしますが、それでも周囲の人は彼を愛する。
「愛されるに値する人間でないのに愛される」ことに絶望したアウグスツスは、命を絶とうとします。
そんな彼の元に再び魔法使いの老爺が現れます。
アウグスツスは、「だれにでも愛される」を取り消し、自分が「だれをも愛せる」ようになることを願います。
すると、周囲の人は、手のひらを返したようにアウグスツスを罵り、騙し取られた財産を奪い返し、彼は見る影もなくやつれます。
しかし、アウグスツスは幸せでした。
なぜならば、路上で遊ぶ子どもたちを見ては可愛いと思い、ベンチで休む老人を見ては労りたいと思い、額に汗して働く人を見れば、手伝いたいと思ったから。
アウグスツスは人々を助けるための旅に出ますが、その胸は以前の人生では知り得なかった、穏やかな愛情に満ちていました。
そして、年老い、生まれた家に戻ったアウグスツスは、魔法使いの老爺に看取られながら穏やかに最期の時を迎えるのでした・・・。
- 作者: ゆうきゆう,ソウ
- 出版社/メーカー: 少年画報社
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[私が「アウグスツス」を知ったのがこのマンガ。私の下手なあらすじより、よほど分かりやすいですよ(笑)]
さて、人間に(あるいは、あらゆる生きとし生けるもの)にとって、「愛される」ということは、水や食料のようなものではないかと思います。
「だれにも愛されない人生」というものがあるならば、それは砂漠に身一つで放り出されたようなもので、到底生きていくことはできないでしょう。
しかし、それを人生の目的にしようとは思いません。
食べることそれ自体が、人生の目的にならないのと同じように。
人は生きるために食べるのであって、食べるために生きるのではありません。
それに、愛されるかどうかは、つまるところ他人次第であって、自分の人生のもっとも大切な部分を、他人任せにしたいとも思いません。
だから私は、もし魔法使いが目の前に現れたなら、「だれでも愛せる」を選びたい。
いや、魔法使いが現れなくても、一人でも多くの人を愛し、助けられる人生を送りたい。
何らかの見返りを期待するのではなく。
その方が、人に愛されることを求める人生よりも、よほど心豊かな人生であると、私は思うのです。
今日はこんなところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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